君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

ずいぶん遠くまで来てしまった

ずいぶん遠いところに来てしまったな。


パソコンのデスクトップ画面を見て思った。

大木くんは昔から、パソコンのデスクトップ画面やスリープ画面の背景を自分で撮った写真にしている。どこかへ旅行に出かけるたびにマメに写真を整理し、新しい画像を背景に設定する。
しかしこの一年はどこへも出かけられなかったから、同じ季節に撮った古い写真を設定するようになっていた。

秋頃は4年前の瀬戸内国際芸術祭の写真だったが、最近は2年前に一緒に行ったムーミンバレーパークの写真に変わっていた。
写真は数分ごとのスライドショーに設定されている。チームラボの体感型アートの中ではしゃぐわたしが次から次に映し出される。撮った人が、写っている人をかわいいと思っているのが伝わってくる写真ばかりだ。

それを見て思ったのだ。ずいぶん遠くへ来てしまったと。


あの頃はお互いがお互いだけを見つめていた。それだけで世界は強固に完結し、満ち足りていた。
あんなふうに小さくて誰も入れないような世界の住人にはもう戻れない。あんなふうに、わたしの右手で大木くんの左手を握り、左手で彼の右手を握って出来た輪みたいな小さな世界には。

だって今はふみちゃんがいる。
半年前にふみちゃんが生まれて、わたしと大木くんは握り合っていた手の片方を放し、その手でふみちゃんの手を握った。3人で作る輪には前より大きなスペースが出来た。誰か他の人が入り込む余地があるくらいに。

そう、つながりはそれだけ緩やかなものになったのだと思う。よく言えば依存性が低くなったかもしれない。わたしはもう大木くんだけを見ているわけではないし、大木くんもわたしだけを見ているわけではない。
わたし一人に注がれていた愛を、大木くんはふみちゃんにもいくらか配分した。いや、いくらかどころじゃない。9割くらいかも。
帰って(きて手を洗って)くるなり、鼻の下を伸ばしてわたしではなくふみちゃんを触りにくる大木くんを見てそう思う。

注がれる愛が減って、少しさみしい。
でもそれはお互いさまだ、わたしもまた持てる愛の大方をふみちゃんにふりわけているのだから。
つまり3人でつないだ輪の形を正確に表現するなら、円ではなく、ふみちゃんを頂点とした二等辺三角形だ。わたしたち親はほとんどふみちゃんの方しか見ていない。ふみちゃんは一人で1.8人分の愛を受け取り、親たちは残りのなけなしの愛をいささかおざなりに分け合っている。

受け取る愛の総量は減ったわけではなくて、たとえば膝の上に乗せたふみちゃんが首をくいっと上に向けて大きな瞳でにっこり笑いかけてくれる笑顔は0.9人分とか1.8人分どころではなく100人分くらいの破壊力があるから普段はあんまり気にならない。というかふみちゃんを見ているとデレッデレに脳みそが溶かされるのでそれどころではない。
でも、ふみちゃんはまだ自我が確立されていない赤ちゃんであり、いつかこの世界は親たちだけでないということをわかってもらう必要があり、いつか巣立つし、その日に向けて親たちは距離をとる用意をしていなければならない存在だから。ふみちゃんからの愛を、わたしから求めるわけにはいかないから。


このあいだ大木くんと二人で『ドキュメント72時間』を見ていると、娘さんが癌だというお母さんが出てきた。それを見て大木くんが、「それはつらいなあ。そんなの、自分が癌になるよりつらいよね」と真面目な顔で言った。
同意を求められたのでわたしは慌てて「うん」と答える(内心では(自分がなるのもわたしつらいかも(>_<))と考えてしまっていた)。
でもその言葉を聞いて、もしわたしがふみちゃんのよき母であり続けられれば、大木くんはわたしを必要とし続けてくれるのかなと、そっと考える。ふみちゃんがわたしを必要としてくれれば、いつまでもわたしを愛してくれれば、大木くんもわたしを邪険にできないのではないかと。
わたしを愛するかどうかはふみちゃん次第だけれど、でも愛してもらえるよう、最大限頑張ろう。
誰にも知られず、そうこっそりと決意する。


わたしは自分の夫に片思いしているのだろうか。
いつからこんなふうになってしまったのだっけ。
考える。ああ、あの日。わたしは思い出す。

去年の今ごろ、夜中に震度3程度の地震が起きたことがあった。
そのとき、隣で眠っていた大木くんはガバッと飛び起きてわたしのおなかに覆いかぶさったのだ。膨らみかけた、妊娠4か月のおなかの上に。
あのとき、大木くんの一番はもうわたしではない、この子なのだと気がついた。

やはりちょっとさみしい。これまでもらえていたものが減るというのは。
しかし繰り返しになるが、これはお互いさまで、わたしの一番も大木くんではなくふみちゃんだ。
だから大木くんだけわたしを一番に考えろなんて言うのは不公平だ。それはわかっている。

でも、子育てが終わってふみちゃんが巣立ったあと、大木くんの愛が戻ってくるのか、ちょっと自信がない。
そのときにはなけなしの残りの愛の交換もなくなっていて、おまえはもういらねって言われるのかもしれない。
わたしは孤独なおばあさんになるのだろうか。

そのときのためにもやはりふみちゃんにとって良い母でいよう。
もしふみちゃんが東京にいれば、年に3回くらいはうちに遊びに来て一緒にマカロンでもつまんでおしゃべりできる程度には仲のいい親子であり続けられるように。

そんなふうに考える。


大木くんを信頼しなさすぎだろうか? 
でも悲しみでもなんでも、悪いことの事前の備えはあるにこしたことはない。
防災用の持ち出し袋を玄関に置いているように。生命保険に入っているように。
そんなふうに考える。

ふみちゃんを愛そう、大木くんを愛そう、しっかり働こう、たくさん本を読もう。
そんなふうに考える。
死ぬときに、どれか一つでも手元に残っているといいなと願いつつ。




お題「#この1年の変化」

kinoshita.hatenablog.com

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