昨日の仕事の疲れが残っていて今日はどうにも動けない。
今日は代休。せっかくの子どものいない休日。やりたい家事、やりたい勉強、読みたい本などたくさんあったはずなのだけど、体が重くてどうにもこうにも。
コーヒーミルを洗わなくちゃと思って、ふと思いついてコーヒーを淹れてみた。一昨日買ったばかりの豆で。
コーヒーミルは去年の誕生日に夫に買ってもらったものだ。自分で豆を挽いてコーヒーを飲むのはさぞかし豊かな時間になるだろうという憧れから買ってもらったものだけど、いざやるとなるとこれが結構な重労働で。手動のミルで2人分の豆を引くのはなかなかに筋力がいるし、飲んだ後でミルを洗うのも大変だ。
結局 月に 1度ぐらいしかコーヒーは飲めていない。
でもわたしは一度にほんの少ししか飲まないから、自分1人分のコーヒーならすぐ挽ける。ミルもどうせ今日洗う予定だったから同じこと。
昨日の仕事帰りに買った栗きんとんも1つ開ける。家族は好きではないらしく、誰も栗きんとんを食べない。だからこれは自分専用のお菓子。
栗きんとんにはコーヒーよりやっぱり緑茶だったかなと思いつつも、ほっこりする味わいの栗きんとんを食べ、濃く淹れたコーヒーをゆっくり飲んでいると少し落ち着いてきた。疲れすぎて頭痛がしそうだった体調もなんとか持ちこたえそう。
この後は最低限の家事だけなんとかこなそうと思う。
せっかくの休みが本当に体を休めるぐらいしかできなくて残念ではある。でもどうして残念に思うのだろう。
思えば中学生ぐらいから塾に通い始め、部活との両立で忙しい中で、どれだけ効率的にたくさんのことをこなせたか、みたいなことが 1 つの価値基準になっていた気がする。勉強も遊びも、あれもこれも諦めない。今は仕事に育児にと忙しく本当に自分の時間が取れないから、なおさらやるべきことを詰めて詰めて、なるべく時間を効率的に使って、空いた時間に自分のやりたいことも最大限やるべきだと思ってしまう。半ば義務みたいに。
だけどそれは体力が無限にある人の真似なのだ。
私は昔から、月に1〜2回は頭痛で寝込んでしまうような子供だったし、大人になってもその体質は変わらない。こんなわたしが、体力オバケな人たちの真似をするのはかなり無理がある。
自分のキャパシティを自覚して、諦めていくことも必要なのだろうな。諦めには大抵苦痛が伴う。なるべく快く諦められる人間になりたい。
こんまりメソッドじゃないけど、ときめくものを厳選して残す、あとは捨てる必要があるのだと思う。あれもこれも大事、ではいけない。
結婚して子供も 2人いるけれども、ここではないどこかへ行きたいという気持ちが今でも時々湧く。私が人生の中で何かたった 1 つか 2 つを大事にするとしたら、それは何だろうか?
もしかしたら一番は家族じゃないかもしれないな。
しかしそうは言っても家族を捨てるわけにはいかない。わたしの人生には(人生がシンプルではなくなってしまうという意味において)なくてもよかったかもしれないが、家族には幸せになってほしいと思っているのでこれは 1 番に大事すべきもの。みんなの人生においてやさしい母、妻が必要ならその役割を一定は果たしたい。
一番を家族にして、余力で自分の2番目に大事にするものをやるとしたら。それは仕事じゃないかもね。家族がいなければきっと仕事も「人生に大事な1つか2つ」に入るんだろうけど。
でもなんで、自分が幸せになりたいと思ってないのに家族には幸せになってほしいのだろうね?
コーヒーの最後のひとくちを飲む。一昨日焙煎してもらったばかりの豆は香り高く本当においしい。
おやつの時間が終わったから家事に戻らないとと思うけれども本当に体がしんどい。ごちゃごちゃ色々考えたけれども、ミルを洗ったら、そのあとは自分の体を休めることを優先させて、椅子に腰掛けてのんびりやれることをしよう。
で、結局仕事用の勉強をする。
なんなんだろな、人生。なかなかこんまりにはなれない。
