君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

手放せない令和の固定観念

はてなブログには、みんなでお題に沿って書いてみましょうというのがあって、いまは「私がとらわれていた『しなきゃ』」というのがお題の一つになっている。

 

わたしもこのお題でなにか書いてみようと思い立ち、さて、ここ数年で手放した固定観念は何があったかなと記憶を手繰り寄せてみたのだが、……ない! 自分を振り返れば振り返るほど「しなきゃ」「すべき」にがんじがらめであることに気付く。

 

もちろん、「女は男を立てるべき」とか「子どもの食事は手間暇かけた手作りであるべき」のような昭和っぽい価値観はすでに持っていなくて、だいたいは平成~令和版の価値観を自然と内面化できていると思うのだけれど、それでも、「ここもう少し柔軟にできたらもっと楽なのにな」「令和版にアップデートされているがゆえに身動きが取れていないな」と思う部分が結構ある。

 

思いついたものを書き出してみる。

 

・夫婦たるもの家事・育児・労働は折半すべき

・女であってもバリバリ働いて、たくさん稼いでえらくならなきゃ

・便利家電やリモート勤務、家事代行などを駆使して、賢く無駄なくストレスなく生活するべき

・子育て中であっても仕事が忙しくても、趣味も楽しんで充実した人生を送らねば

・自分の夢だって叶えなくちゃ

・結婚しなくても幸せになれる時代。パートナーに依存せずに自立し、たとえ一人であっても幸福でいなくては

・子どもは過干渉にならないよう注意しつつ、一方で過保護にはなってもいい、大事に大事に愛情たっぷりに育てるべき

・赤ちゃんには肯定的な言葉をたくさんかけてたくさん笑いかけて脳を育まなくちゃ

・子どもの自由な意思を極力尊重しなくちゃ。イヤイヤ期でも寄り添っていかなくちゃ

・美容と健康に気を使い、いつも小綺麗にしておかなくては

・仕事でもプライベートでも子ども関係でも、常に感じよくふるまって周囲の人と最低限の関係は築いておかねば

・育休も時短勤務も正当な権利。だけど周囲の人への感謝の言葉と謙虚な態度とたまに御礼の品も忘れずに

・本や新聞を読んだりニュースを見たりして常に時代にキャッチアップせねば

・終身雇用は昔の話。勤務時間外にもしっかり研鑽を積んでスキルアップしなくては

・先行き不透明な時代。住宅ローンの金利上昇リスクに備えて貯金や投資を行い、子どもたちが私立の学校へ進んでも大丈夫な程度の教育資金も今からしっかり準備しないと

・子どもに親の面倒を見させるなんて言語道断。老後は自分たちでなんとかしなくちゃ

 

 

ざっと思いつくだけでこれくらいの価値観を、無意識に心の土台部分に置いてしまっていると思う。多分もっとある。

 

別に悪いことはない、上記の価値観に従って生きていても。いやむしろこうあるべき?

でもやはり「べき」にしばられて楽しいかと言われると、よくわからない。

 

たとえば、「家事・育児・労働を夫婦で折半!」は、「女が家事育児をやるべき」から解放されての比較的新しい価値観だと思うのだけれど、そこに縛られすぎると、じゃあ現在育休中のわたしの存在意義って何? みたいになったりする。最近は待機児童問題も落ち着いてきたので、1歳を過ぎた4月から保育園に入れて職場復帰するママが多いようなのだが、わたしは「そんなに長くのんびりしていられない早く復帰しなくちゃ」と焦って、1人目も2人目も0歳で保育園に預けて復帰することにした。(希望の保育園に確実に入れるためという事情も多分にあるとはいえ)

だいたいの家事はキライなのでいいのだが、毎度毎度、「これでよかったのかなあ」と思ったりする。

 

そして、上記の「べき」のうち、いったいどれだけ達成できているかというと、

……これが、ほぼ、全滅。

 

上の「たくさん稼いでえらくならなきゃ」って、まず己の給与表を見ようかと自己ツッコミを入れながら書いているし、それになんだ、「夢を叶えなくちゃ」って。中学生か。あと、「美容と健康」て。まず体重計乗ろうね?「パートナーに依存しない」? 夫がいなくなったら生きていける気がしないよ!

 

そして項目間に矛盾が多すぎる。

労力を最小限にしてストレスなく生活していたらスキルアップなどできないし偉くもなれない。そもそもいくら便利家電を使おうと、子育てのタスクを削るのは限度がある。どれだけ綺麗事を言おうと母乳で育てると赤ちゃんはママにべったりで育児を完全に折半などできない。ストレスフリーの生活なんて夢のまた夢!

 

それにもともと怠惰な人間なのだ、わたしは。

こうしなきゃ、ああしなきゃといつもいつも理想ばかり掲げて、で、実際毎日何をしているかというと、ぼんやりスマホを見ているだけだ。

いらんSNSを眺めてそれにも飽きたらYOUTUBEを見ている。アマプラでなんとなく昔のドラマを見ている日もある。画面に時間だけ吸い取られてゆく。

 

赤ちゃんに遮られて細切れの時間しかないから小説なんて読めない、とか、夜泣きに備えて早寝したいから子どもの寝かしつけ後にランニングするなんて無理、とか、色々理由をつけて趣味すらしていない。

一日10分ずつでもやればいいのに、つい、目の前にあるスマホに手が伸びて……。

 

それで、こんなんじゃだめだもっとスマートで感じのいい現代人にならなくちゃ、そつなく何でもやってキラキラな人生を謳歌しなくちゃ、それができない自分はなんてダメな人間なのだろう、と自己嫌悪に陥っているのだ。

 

 

いや、でも冷静に考えて、無理だよね。

上のリストからどれかひとつかふたつの価値観をえらんで、「これだけは」と努力するならともかく、最近巷にあふれる現代の価値観を何でもかんでも取り入れて、「今からの時代はこうしないといけないらしい」と盲目的に真似しようとしたって、そんなキャパシティはないし、時代にそぐわないことをしたいときだってある。ぼんやりスマホを眺める無駄な時間も、全くなくしては生きられない。

 

 

ここまで考えて、「そうか、私はもっと足るを知る必要があるのだな。等身大の自分を見つめて、上のリストをもう一回見てみよう、手放せる固定観念があるはずだ」と振り返ってみたのだけど、これが難しい。

固定観念固定観念たるゆえんである。どれも大事なような、必要なような気がしてくる。

 

今じゃなくていいんじゃないか、今手放さなくても、そのうちどれか諦めがつく日が来るさ。例えば定年退職する日とか。

 

そんなふうに嘯いて、これからも叶えられない理想を掲げて、できなくて自己嫌悪に苛まれ続ける未来が見える。

 

本当は、「ほどほど」のところで満足すべきなのだろう。

完璧な子育てなんてできない、ドラマみたいなキラキラした暮らしや仕事もできない、趣味すら中途半端。でもその中途半端さ、凡庸さを、これが自分なのだと受け入れる、自分に対しての諦めと寛容さが必要なのだろうな。

 

難しいな。