その日、宅配便が2回来たのだが、2回とも重い荷物を玄関の外で手渡されてしまった。
え?ちょっと
と言いながら数キロある段ボールをかかえて玄関に入る。宅配屋さんはこちらがありがとうを言う隙もなく、ニコリともせずさっさとトラックに戻って行ってしまった。
普段なら荷物が重い場合、大抵向こうから「玄関の中に置きましょうか」とかって言ってくれて、玄関の外で荷物を押し付けられることなどほとんどないのに。
しかもこちらは誰が見てもそれとわかる大きなおなかをかかえた臨月の妊婦である。
どこの誰だかよくわからない個人事業主みたいなAmazon便のお兄さんならともかく、その日は2回とも大手の運送業者だったのだが、大手運送業者のスタッフからそんな対応をされたのは初めてだったのでちょっと戸惑った。
なぜこんな対応をされたのだろうと考えて、もしやわたしがブスだったからでは…? と思い至った。
その日のわたしの格好。
数日前の検診で「子宮口が開いてきているのでもう今週生まれるかも」と言われたので、急に入院となっても大丈夫なように、その翌日から化粧をしていなかった。
服装は、どうせ今シーズン限りだしとアカチャンホンポで買った3,000円くらいの安物のワンピース。すでによれよれ。
髪も、子どもと一緒にお風呂に入っているとコンディショナーとかトリートメントを使っている余裕がないし、もう産休に入っているのだから何でもいいやとボサボサのままの髪を無理やりひっつめただけで。
さらに産休に入るまではいつもコンタクトレンズをつけていたのだが、最近は毎日眼鏡。買う前に試着したときはまあまあおしゃれかなと思って買った眼鏡だが、度が強すぎて目が半分くらいまで小さく見えるし、細いフレームから分厚い白いレンズがはみ出してただのブサイクメガネになってしまっているやつ。
つまりその日のわたしは、陰毛みたいな縮れたアホ毛のたくさん立った、顔も茶色くくすんでおでこなんかもテカっているすっぴんの、クソダサ眼鏡をかけた、よれよれの服を着た妊婦だったわけだ。
わたしは元がブスだけれど、働いているときはなんとか社会で仕事ができる程度に整えていた。それが、一人目が生まれてからだんだん余裕をなくし、今ではそういうことが一切できていない。
元のわたしに何か外見的チャームポイントが一つあったとしたらそれは「長身でやや細身」という点だったのだが、妊娠してから10数キロも体重が増加しており、今はただ「でかくてガタイのいい妊婦」でしかなかった。
要は、その日宅配屋さんの前に立ったわたしは「清潔感のない、でかいブス」だったのだ。
最悪だ。
だから宅配屋さんは冷たかったのだろう。
大木くんに言ったら「気のせいでしょ」と言われそうだけれど、人間だれしもそういう性質を持っていると思う。ブスの前ではだいたいみんな普段より冷たくなる。
いや逆かも。
相手に対して無感情なのが通常なのかも。
忙しく仕事をしていると、対応している相手が自分と同じ人間だということを忘れてしまうのだ。道端の電信柱に挨拶をしたり自動販売機にお礼を言う人がいないのと同じ。機械的に荷物を運んで渡しているだけ。
相手がきちんとした身なりをしているときにだけ、ハッとして自分の仕事が人間相手のものだったことを思い出し、笑顔になり優しい声かけをするのだ。
みんな忙しいから、わざわざブサイクな奴に対していじわるするわけじゃないんだけど、ブサイクは道端の電信柱と同じ。見えない、認識されないのだと思う。
やはりブスに人権はないよな。
いや、ルッキズムを肯定するつもりはないし、自分は見た目で人への態度を変えないよう気を付けているのだけれど、やはり綺麗な人(声や笑い方なども含めた雰囲気が美しい人)には性別問わずハッと人の意識を引き付ける力があるのは本当で、なかなかそのレベルには到達できないとしても、少しでも近づく努力はしておきたいと思う。
やっぱりちゃんと身ぎれいにしておくに越したことはないな。子ども生まれたら運動してダイエットしよう。仕事復帰するときは新しく服を買って髪もきれいにしよう。
などと考えた。
……でも今はいいや。
別に宅配屋さんに適当に扱われてもちょっと不便なくらいでそう困らないし。
ただ、これがどんどん年を取っていくと、髪はパサつき、白髪も増え、肌も乾燥してしわも増え、運動しても脂肪が落ちず、だんだんと「身ぎれいにする」のハードルもどんどん高くなっていくだろう。そうなると努力もむなしく、透明人間になってしまうことが増えていくのかなとは思う。小さな不便も積み重なると結構つらいかもしれないな。老後、一人暮らしとかになってしまうとなおさら。
なお、同じ日に来た生協のお兄さんは、こんな小汚い妊婦にもいつもどおりさわやかに笑いかけてくれた。
当たり前だ。生協のお兄さんは担当が決まっていて、毎週顔を合わせるのだから。
関係が継続する場合、相手がブサイクだったとしてもさすがに「相手も人間であることを忘れる」という事態にはならない。
だからわたしたちは生きていられる。