今度、家を買うことにしている。
内覧会時にホームインスペクション(第三者のプロによる住宅検査。気休めだけど)とか、引き渡し後にフロアコーティングとか外構をいじったりとかをやろうとおもって、家を買うのと同時並行でいろいろな業者とやり取りをしている。
やり取りはだいたいメールだ。
では、この見積もりの内容でよろしくお願いいたします、なんてスマホのGメールからポンと送信していて、なんだか不思議な気分になった。
家を買うときはさすがにハウスメーカーの本社に行って重要事項説明を受け、仰々しい感じで実印を押したけれど、それ以外のこまごましたことはメールや電話ひとつで決まっていく。でもそれだって数万円とか数十万円とかする高いやつだ。アマゾンでポチっと赤ちゃんのよだれかけを買ったりするのとはわけが違うはずなのに、スマホひとつで決めてしまう。
「なんかさあ、まだ大人になったつもりないのに数十万の契約をしてるの、ふしぎ」
乾燥機にかけた洗濯物をたたんでいる大木くんのところにわざわざ言いに行く。
大木くんも
「なんかわかる」
と言った。
「ね。なんか本当はしちゃいけないことをしているような不安なきもちに……」
とわたしは言ったが、大木くんはそういう感覚ではないという。
「俺は、なんか大人になってしまったんだな、っていうさびしさがあるというか」
「逃げられない責任を負って自由を失ったさびしさ?」
「そういうのとは違う。責任感で言うと、ふみちゃんが生まれたときには感じたけど、家はいざとなったら売ればいいと思ってるからそうでもない」
「まじか。わたしはいまの方が『逃げられない感』強いけどね」
独身の頃、家を買った先輩を見て「うわぁ、よくそんなことできるな、もうこの土地からも家族からも銀行からも仕事からも逃げられないじゃん」と引いていたわたしは、土地に根を張る戸建購入の方が子どもよりハードルが高かった。子どもはいてもまあ、大学は奨学金で行ってもらうとか家族で安い地域に引っ越すとか、やり方があるが、家があると身動きが取れない気がする。
大木くんの言うとおり、売っちゃえばいいんだけどね。
洗濯ものをたたむのを手伝おうかと申し出ると、皿を洗ってくれと言われたのでわたしはキッチンに移動した。
食洗機の乾燥が終わった皿を片付け、鍋などを洗っていると今度は洗濯ものをしまい終えた大木くんがキッチンに来て、ダイニングスペースにおいてあるスツールに腰掛け
「なんかさ、昔は一万円て高額だったけど、もうその頃の感覚には戻れないんだなっていうさびしさというか」
「あー。一万円を見て『これもできる』『これも買える』みたいなはしゃぎ方はもうできないみたいな?」
「そうそう」
「おいしいものを食べすぎて舌が肥えて普通のものでは感動できなくなったみたいな」
「そんな感じ」
大木くんの言わんとしていることを正確に汲み取れたかはわからないが、なんとなくわかった。
300円の牛丼すら高くてめったに食べられなかった学生時代は、100均のインテリア雑貨でテンションが上がって十分満足できていたし、たまに600円くらいのものを買うと、「本当にいいものを買った」と思えてとても大切にできた。いまじゃそうはいかない。
なんたってもう数千万円の家を契約してしまったのだから。
人生で一番高い買い物を終えてしまったのだ。
そして、数千万に比べればたいしたことないと、フロアコーティングやら玄関アプローチやらにどんどんお金を投入していく。
今後これが基準になってしまうと、これからの人生、かなりいろんなものが「たいしたことない」になってしまうのかもしれない。
それはたしかにさみしいことかもしれなかった。
大木くんにつられてすこししみじみしてしまう。
でも、このときわたしは、大木くんがそんなふうに、話し合わなくても生活に差しさわりのない個人的な「感覚」についてわざわざ伝えなおしに来てくれたことがうれしかった。
「ふみちゃんがかわいすぎる」「ふみちゃんの将来が楽しみすぎる」以外のこういう会話は、久しぶりかもしれなかった。