君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

陽が落ちるのが早くなってきましたね

よく、昔歩いた実家近くの丘の上の道、などの光景がふっと脳裏に浮かぶことがある。

犬の散歩で何度か歩いた校区外の田んぼ脇の住宅街の道、とか時々回り道して歩いた車の入れない狭く曲がりくねった坂、とかをやたらと思い出す。

あるいはおばあちゃんちの廊下とか。毎年夏と冬に1週間ほど泊まりに行っていたおばあちゃんちの、思い出すのは夏の方。裏が山なので、いつも少し湿り気がある暗い廊下。わずかに外から漂ってくる土の匂いとひんやりした床板の質感。

 

思い出すたびに胸がぎゅっとなる。

なつかしさ? 郷愁?

そういうものとも少し違う。実際、実家に帰ってもわざわざその道を歩きに行くことなどないのだ。

たぶん、今現在わたしが見ている光景や空気(湿度とか温度とか)のなにかしらの破片がそういう些細な記憶によく似ていて、自分でも意識しないタイミングで意識しない光景が脳裏に呼び覚まされ、「今」と「過去」が無秩序につながってしまったことで頭が混乱するのだと思う。

 

でもそのたび、とっさに

帰りたい

と感じてしまう。

 

本当に帰りたいわけではないのに。

何年か住んだだけの地元にはいつもそこはかとない居心地の悪さを感じていたし、胸がぎゅっとなるときに思い浮かんでいるのは家族の顔でも友人の顔でもなくひとりで歩いていた「道」。おばあちゃんちも、思い出すのは親戚が集まる居間ではなくて誰もいない「廊下」だ。

 

今の生活の方がずっと幸せ。それなのにわたしは帰りたい帰りたいと願っている。この家以外、帰る場所などどこにもないのに。帰りたい。どこでもない場所へ。帰らなくちゃ。でも、帰れない。帰るところはない。

 

わたしは早く時間が過ぎればいいと思っている。10年とか、20年とか。

これまでの人生で11回引っ越しをした。

どこにいても、いつかここを離れると思いながら生きてきた。

家を買った今でも実は少しだけそう思っている。

だから早く時間が過ぎればいい。

今まで生きてきた中でこの家が一番長く住んだ場所になって、この家で生きる以外考えられなくなって、思い出しても思い出してもこの家での記憶ばかりが蘇るようになればいい。

ふみちゃんが大きくなったころに赤ちゃんだったころの今を思い出して、ああなつかしい、はやく「わたしの家」に帰りたいと感じられるようになりたい。