君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

わたしがいなくなっても

このあいだ、ふと思いついて大木くんに

「子どもが生まれた後、わたしが死んだらどうする?」

と聞いてみた。大木くんは直接は答えず、

「まあそういう可能性もなくはないのか」

と言った。

 

日本は世界一出産のリスクが低い国らしい。出産で母親が死ぬ率は、10万人当たり4人程度という。それでも、「出産のとき私結構危なかったらしいんだよね」という話を先輩から聞いたことがある。出血多量とか言っていたような気がする。コウノドリの世界である。ちなみに、新生児死亡率は千人当たり0.9人。

夫と子どもだけ残してわたしだけ死ぬ、という事態はほぼ想定する必要はない。が、身近な人でそういうケースがあると、やはりちょっと考えてしまう。

 

大木くんは一人で子育てできるだろうか。

毎日保育園に送り迎えして、仕事もこなし、赤ちゃんの夜泣きにも付き合うなどという生活を、一人でやれるものなのだろうか。大木くんの実家は北海道で、両親とも70代だからあまり頼れないし。

子どもの人生も大切だけれど、大木くんにも幸せになってほしい。わたしがいなくなっても、愛し合える人を見つけて再婚してくれたらと思う。その時、子どもがいたらまとまる話もまとまらなくなるのでは、などと考えてしまう。

大木くんは子どもと二人きりの生活に幸せを見出せるだろうか。

乳児院に預けてはだめだろうか。施設に預けられた子どもが必ずしも不幸に育つわけではないのだし。少し成長してから引き取りにいくことだってできるのでは? いや、そうなると子どものためには赤ちゃんのうちに他の夫婦に特別養子縁組をしてもらえた方がいいのかも。

 

今わたしの目の前にいるのは生きている大木くんであって、我が子はまだ見えない。だからどうしても、大木くんの方が大事に思える。

 

などと考えてしまって、自分からふった話題なのに、わたしも何も言えなくなってしまった。

世の中一人で産み育てているシングルマザーなんていくらでもいるのに、男の人だと急にハードルが上がるような気がしてしまうのは、あるいはそこまで頑張らなくてもいいような気がしてしまうのはなんなのだろう。

 

 

しかし、その数日後、2歳くらいになった自分の子どもの後ろ姿がふっと脳裏に浮かんだ。二人で愛した子どもの姿。

きみは望まれて、愛されて生まれてきたんだよ、ということを知っておいてもらう必要があると思った。そのためには、その子のそばに大木くんがいないといけない。愛を感じながら成長してもらわなければいけない。

 

「このあいだの話だけど、わたしが死んでもなんとか子育て頑張ってね」

唐突な話題に大木くんは「ん? ああ」と戸惑いつつも、

「その時はちゃんと育休をとらないとなー」と言った。「まあひとり親なら保育園は絶対希望したところに入れるし」とも。

少し安心する。

「わたしが死んだらわたしの実家にお金をせびっていいから。葬式は通夜なしの直葬で30万くらいで済ませてね。お金はベビーシッターとか家事代行とか何でも使ってくれ」

そう言うと、大木くんは「ああ」とちょっと笑った。

「でもその歳で死んだら30万の葬儀では済まないような気が」

「今なら『コロナだから近親者のみでやります』っていう手が使えるよ!」

「まあそうか」

 

まあ生命保険も入ってるしわたしが死んでも何とかなるかな。なるような気がしてきた。しんどいのはたぶん最初の数年くらいだ。まめで合理的な大木くんのことだ。うまくやるだろう。

 

死ぬ確率なんてほとんどないのに、これでわたしがいなくなっても大丈夫、と準備万端なような気がしてきて、わたしは満足した。