君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

ニース食堂の思い出

中学生か、高校生のころ、姉妹だけでフレンチのお店へ行ったことがある。一番下の妹はだから、まだ小学生だったかもしれない。

確かひとまわりくらい年上の従姉妹からお年玉をもらったのだ。一万円。わたしたち姉妹に、ということだった。だが、うちは三姉妹。一万円は3人では割れない。そういうわけで3人で食事に行こうとなったのだった、たしか。


どうしてそのお店を選んだのか、そしてバスを降りて少し歩くそのお店に、ケータイすら持っていなかったわたしたちがどのようにしてたどり着いたのかはもう覚えていない。
覚えているのは、ドアの脇に掲げられた、洒落た小さな看板だけ。
実家はさして裕福ではなかったので、普段ファミレスですらめったに連れていってもらうことのなかったわたしたちは、おっかなびっくり入店したように思う。

こじんまりした落ち着いた雰囲気の店内。客はもう一組だけ。壁にかかった小さな黒板にメニューがか書かれていた。普段(たまに)外食するときのレストランよりずっと高い。ワインのメニューもある。目にする何もかもが初めての場所だった。
わたしたちはどきどきしていた。でもわたしは長女だから、たぶん妹たちのまえではたいして舞い上がってないような顔をしたのではないかな。

何を食べたのかは覚えていない。
でもとても美味しかった、またこようと思った。
おこづかいではこれない。だから、いつか大人になったら。また3人で。今度はワインも飲んだりして。
実家を出てからもしばらくは、時々思い出してそう考えていた。


けれど結局三姉妹は全員家を出て、一時期は全国にてんでばらばらに散らばり、休みも合わず、実家に帰っても数日で自分の家に戻るような生活となっていって、その思いが叶えられることはなかった。


5月に大木くんを連れてわたしの実家へ行った帰り、ふとそのことを思い出してあの店の話をした。
十代のころ姉妹だけで行った、特別な思い出のあるお店があるんだ。
従姉妹にもらった一万円を握りしめて。
いつかまた行きたいな。でも3人で一万円といったら、大人になった今のわたしたちにとっては全然大したことのないお店だったのかもしれないよね。もう一度行って、思い出が陳腐化するのは怖いんだよね。

そう、今は「3人で一万円」の数倍するお店も知っている。誕生日に大木くんが連れて行ってくれるようなお店とか。
働くようになって、子どものころ経験してきた食事よりうんと高い食べ物を食べる機会が時々できた。有名なフレンチだったりブランド牛だったり、漁港の街で食べる寿司だったり。そしてそれ以上に、「3人で一万円」くらいのお店にはすごくよく行く。会社の飲み会なんかでもドリンク代を抜いたらだいたいそれくらいの値段のところだ。とっても、陳腐。ありふれている。
こんなふうになってしまった今のわたしでも、あのお店の料理に素直に感動できるんだろうか。

けれど優しい大木くんは、「東京じゃないんだし、地方で三千円台だったら、やっぱりそれなりにいい店だったんじゃないかな」と言ってくれた。
そうか。そうかも。そうだったらいいな。
うん。やっぱりまたあのお店に行きたいかも。三人で。



今日、仕事で新宿に行っていて昼食にとんかつを食べた。
1,200円のロースとんかつは分厚い小麦粉の生地にくるまれていて、豚肉は変に柔らかく、なんだか残念な気持ちになった。わたしは、地方の何でもないレストランで、ここより300円以上安くてここより肉がでかく、ここの何倍もおいしいお店を知っている。都会は大したことないものでも何でも高いよな、なんて考えていて、地元のあのレストランを思い出した。
気になって調べてみる。
食べログの口コミとか書かれちゃってるんだろうか。評価は良いだろうか、悪いだろうか。


店はすぐに出てきた。
口コミも何件か。3.5とか4とかの評価をしている人たちがいてうれしくなる。
ただ読んでみると、あのお店はフレンチレストランというよりかは「洋食屋さん」なのだそうだ。子どもだけではとても敷居が高かったお店も、大人からするとカジュアルなお店だったようだ。でも、「雰囲気もいいからデートにも」ってレビューもある。そうそう、やっぱり素敵なお店なのだ。

だけど。

お店は閉店していた。
最後の口コミは2010年のものだ。

さみしい気持ちになる。
でも、同時にどこか安堵してしまう自分がいた。
あの時の、うんと背伸びしてドキドキした経験が、一つも傷つくことなく、完璧なまま思い出になったから。
あのレストランは、この先もずっと美しい郷愁の中にいてくれる。