先日、大木くんが車にぶつかられたのでその後のことを自分用の備忘録として書いておく。長くなった。
- 事故当日
先日のとある水曜日。
残業しないで会社を出て、夕飯の買い物を済ませてうちに帰り、とりあえずテレビのスイッチを入れたところで、スマートフォンが震えだした。070の知らない番号。だれ?宅急便屋さんかな?と思いながら廊下に出て電話に出ると、救急車のサイレンが流れてきた。
「?」
と思いながらもこの時点で嫌な予想が脳裏に。
「木ノ下さんのお電話ですか?」
と男性の声。
「はい」
「こちら〇〇消防署救急隊です。先ほど木ノ下△△さん(うちの大木くん)が交通事故にあわれまして、けがは大したことがないようなんですが」
なんだこのドラマみたいな展開は。でもけがは大したことがないんだな。救急隊の人もそんなに慌てた声じゃないし。と思いながら聞いていると、
「事故後駆けつけた我々に『ここはどこですか?』とか『わたしは何をしていましたか?』と聞いたりしているような状態で、お答えしても数分後にはまた同じ質問を繰り返したりしていらっしゃるので、念のため病院に搬送しています」
「はい…」
と答えた声が震えた。え? 記憶がなくなっているってこと? それ大丈夫なの? 頭打ってるの? 脳に損傷起こしてるの? 治らなかったら……
向かっている病院名を教えてもらい、慌ててメモを取っていると涙がこぼれてきた。大木くんに電話を替わってもらい、「だいじょうぶなの?」と聞くと、ちょっと困惑しているような、しかしいつもの声で
「どうも事故にあったらしく」
なんて他人事みたいに言う。膝がちょっと痛いくらいだ、という。
「まあこのようにご主人のけがは大したことないので、慌てずに病院に来てくださいね」
と救急隊の人が言って、電話が切られた。
慌てずに、と言われても! と思いつつもちゃっかり買ったばかりのひき肉を冷蔵庫にしまってからマスクをつけなおし、下ろしたばかりの鞄を再び肩にかけ、家を出た。幸い、マンションの前ですぐに流しのタクシーがつかまった。
タクシーの中でスマホを確認していると、十数分前にも大木くんのスマホから着信が来ていた。事故直後にわたしに電話をくれたのだろうか。気が付かなくてごめん。
病院まで20分ほどかかった。その間はスマホでグーグルマップの現在地が移動するのを眺めていた。
病院に到着し、夜間受付で名前を言うと、中に通された。そしてそこにはストレッチャーの上に寝かされた大木くんが。
「大丈夫なの!?」
駆けつけた頭に手を置いた。ああ、と大木くんの反応はやや鈍い。
「顔がちょっと痛いのと、膝を少しケガしたくらい」
顔のけがは、少し擦りむいたくらいで大したことはなさそうに見えた。
「動けないほどなの?」
「動かさない方がいいかなと思って動かないようにしている」
看護師さんが寄ってきて、「奥さんもびっくりしましたよねー」と話しかけてくれた。うなずいてまた少し涙が出てきた。
これから頭のCTと足のレントゲンを撮るという。大木くんの荷物を受け取って、待合で待つことにした。
待ちながら、もし骨折でもしていたらどうなるんだろうと思ってネットで調べたりしていた。
でもまあ、普通にしゃべれるし、よかった。
警察からわたしのスマホに電話が来た。後日必要になるから診断書を取っておいてくれとのこと。
検査が終わって、診察室に通された。大木くんはここでもストレッチャーに横たわったままだ。
昨日の晩ごはん覚えてる?と聞くとちゃんと答えられた。今日の昼にラインで連絡を取り合ったことも覚えていた。今日の夕方、職場を出た記憶はないという。その後、救急車に乗って運ばれた記憶も曖昧なのだとか。たぶん30分間くらいの記憶が飛んでいる。
整形外科の先生が来て、足のレントゲン写真を見せてくれた。特に骨折などもないし、腫れてもいないから靭帯の損傷なども恐らくないでしょうとのこと。診断書をください、と伝えると、症状が変わる可能性もあるから、事故当日は出せないとのこと。「警察なんかいくらでも待たせとけばいいんですよ」と楽しそうに笑った。
次に脳神経外科?の先生が来て、頭のCT画像を見せてくれた。特に出血等もなく、一時的に脳震盪を起こしただけだろうとのこと。わたしは記憶が飛ぶなんてやばいことなんじゃないかと思ったが、頭を打つとそういうこともあるんだそうだ。『頭を打った患者さんへ』というプリントを持ってきてくれ、「一週間くらいは様子を見て、何度も吐いてしまうとか、日に日に頭痛が強くなるとか、異変があったらまた来てください」とのことだった。
帰り際、看護師さんがわたしの鞄についてるマタニティマークに気付き、「うわっ、奥さんも大変な時に!」とびっくりしながら言った。
大木くんはまだふらふらしていたので待合に座らせ、わたしが会計を済ませた。タクシーで帰る途中に警察に電話し、事故の相手方の名前と電話番号を聞いた。相手が逃げるつもりで電話に出なかったらどうするんだよと思って勤務先も聞こうとしたが、高齢者なので無職なのだといわれる。高齢者かよ。免許返納しろよ。事故の原因だが、大木くんもその車も青信号だったらしい。横断歩道を渡っていた大木くんを、右折だか左折だかしてきたその車が弾いたのだ。ひどい話だ。
家に帰る前にコンビニでお弁当を買ったが、大木くんはあまり食欲がないようだった。食べている途中で事故を起こした相手から電話がかかってきて、わたしがとった。大木くんが命に別条がないと聞いて相手はたいそう安心していた。また電話するとその男性は言ったが、面倒なので「保険会社に連絡してくださいね」と伝えた。
- 翌日
起きて大木くんの生存確認をする。
ちゃんと生きてはいたが、昨日より頭が痛いという。仕事に行けないほどではないかもしれないが、重要な会議があるわけでもないし休むという。
「わかった。何かあったら電話してね。お昼休みに一度電話するね」
と伝えてわたしは出勤した。大木くんがどういうぶつかり方をしたのか知らないけれど(本人も記憶がない)、頭のけがは、ぶつけた直後は何ともなくとも、実は脳内で小さく出血していて数時間後に死ぬ、なんて人もいると聞く。心配である。
お昼休みに約束通り電話した。出ない。2回かけて、多分寝ているのだろうと判断し、一度食事に戻る。数十分後、再び電話をする。出ない。もう一度。出ない。もう一度。出ない!
お昼休みはもう終わりそうだった。大木くんは多分寝ているだけだ。心配しすぎるのはよそう。と思う。
でも、万が一死にかけていたら?
そんなはずはない、と思うが、冷静に考えて今日の午後急ぎでやらねばならない仕事はなかった。1,2時間中抜け休暇をとったくらいでは、特に周囲に迷惑がかかるわけでもない、と判断した。
上司に声をかける。
「すみません、ちょっと中抜けしてきてもいいですか?」
「どうしたの?」
「夫が昨日事故にあって、頭を打っていて。今日は頭痛がすると言ってうちで休んでいるんですが、さっきから電話に出なくて」と言ったら自分の目から涙がぼろぼろ出てきて自分で驚いた。どうやらわたしの中に恐怖があるらしかった。「十中八九寝てるだけなんですがちょっと心配で」
そんなわたしを見て止められる人がいるわけがなく、許可をもらって職場を出た。バスかタクシーか迷ってタクシーを捕まえた。
平日の東京。車は多いし、ほんの百メートル程度ですぐに信号に引っかかる。公共交通機関の方が早かったかも。歯噛みしながらまたグーグルマップを検索する。一応、車の方が5分ほど早く着くことになっている。5分かよ。あーあ、どうせ大木くん、ただ寝てるだけなのに。
3,500円払ってタクシーを降りる。エレベータまで駆けて上へ。うちへ入る。寝室をのぞく。大木くんがいる。わたしに気付いて、もぞ、と動いた。
「だいじょうぶなの?」
「え。うん。あれ、どうしたの?」いつもどおりの声。
「電話に出ないから帰ってきたんだよお」
言いながらまたぼろぼろ涙がとめどなく溢れてきた。なんか漫画みたいだな、と自分で思った。
「ごめん、寝てた」
うわーと声をあげて泣いた。大木くんの枕元にへたり込んで。
涙はなかなか止まらなかった。
大木くんは、やはりまだ体が回復していないようで、午前中もずっとうつらうつらしていたそうだ。そのあと、大木くんはまだ何も食べてないというのでコンビニへ行ってパンを買ってきた。でもまだ食欲がないらしく一つしか食べなかった。まだ頭が痛いという。見ると昨日はなかったのに、まぶたに紫色の内出血ができている。わたしは2時間休みをもらうことにして、晩ごはん用にと昨日買っていたカブとひき肉で煮物を作って、また職場に戻った。
夜は職場の人と観劇に行く予定だったが、キャンセルして定時で帰った。大木くんは夕食もスープくらいしか食べられなかった。
夜眠るとき、手をつないだ。「心配かけたね」と大木くんが言うので、「無事でいてくれてありがとう」と答えた。
- そのまた翌日
朝、わたしが出勤準備をしていると大木くんがいきなり起きてきてトイレにこもってしまった。出てくるなり、トイレの入り口にもたれかかったまま「スープある?」と言う。
「気持ち悪いの?」
「うん」
おとといの夕方からあまりちゃんと食べれていないので空腹から吐き気につながったのだと思う。寝室に連れて行って壁にもたれさせ、スープはなかったが、前日のカブの煮物のお汁をとりあえず温めて出した。
単なる低血糖か何かによる吐き気だろうとは思う。でも、病院で「何度も吐くようだったらまた来て」とも言われている。目の周りの内出血が、昨日よりひどくなっている。
「わたし午前中休もうか?」
と聞くと、
「うん。俺もちょっと不安だからそうしてほしい」
という。弱気な大木くんは珍しい。わたしは会社へ電話することにした。
結局、昼まで様子を見たけれどまた吐くことはなかったので午後は出勤した。気を抜いて1時間ほど残業して帰ったら、昼より少し体調の悪そうな大木くんが待っていてしまったと思った。
- その後
ただその後はゆっくりと回復していった。
翌日は週末だったので、近所の眼科へ行く以外はゆっくり過ごした。
目の周りはパンダのように濃い紫色が大きく広がっていたが、眼球そのものに損傷があるわけではないようだった。
本当はこの日は、結婚式をした日に食事会をした神楽坂のフレンチの予約をしていたのだけれど、行ける状態ではないのでキャンセル。
まだふらふらする、と言いながらも月曜からは大木くんも仕事に復帰。目の周りの内出血も徐々に消えていった。膝の痛みや、あごの周りの痛みも、事故から2週間たつ頃にはほぼなくなった。
相手方の保険会社からも連絡があり、治療費、タクシー代、破れたコートの代金、慰謝料等が段階的に振り込まれている。何万か慰謝料があったそうなので、大木くんがわたしにも2万円くれた。
後日診断書をもらって大木くんが調書作成の協力のために警察へ行ったところ、調書の内容がちらっと見えて、相手方が77歳であることがわかったという。後期高齢者だ。まじで免許返納しろ。そしてどうやら、大木くんは車にぶつかられてそのままボンネットに乗り上げ、その時に頭を打ったらしいということも分かったという。ボンネットに乗り上げるほどってその車結構スピード出てないか? 青信号で横断歩道を渡る歩行者に気付かずそのままつっこむってけっこうやばいぞ。今すぐ免許返納しろ。
- 感想
とまあ色々あったが、特に後遺症も今のところなく、治ったようなので本当によかった。
あと、家族がいるって安心なことだなとあらためて思った。これがもしただの恋人だったら、救急隊からわたしの携帯に電話がかかってこなかったかもしれないし、大木くんが電話に出ないからといってわたしが仕事を抜けることも難しかったかもしれない。よかった、結婚しておいて、と本気で思った。しかも大木くんは、わたしが病院に駆けつけたときは意識ははっきりしていたように見えたのに、そのあと聞くと救急車の中の記憶もないし、病院で医師から何を言われたかもよく覚えてないという。付き添える家族がいてよかったよ、本当に。
大木くんは事故後しばらく、以前より甘えてくるようになった。
今回はまったく元通りになったからこう言えるけれど、事故って結構甘美な経験だなどと終わってからは思う。大木くんがどれほどわたしにとって大事な人物であったかが気づくことができたので。
まあもう当面事故とかいらないですけどね。
おわり。