君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

100年後の未来へ

新生児の頃から、深い思索に耽るような目をしていたふみちゃん。*1

大木くんに言うと、彼も

「遠い未来に思いを馳せてるんだよ」

と言う。

「そっか、人生100年時代だから、100年後の未来について考えてるのかもね」

「2120年か」

「2120年か。今から100年前は1920年か」

第一次世界大戦とかの頃?*2

「そうか。現代とは全然違う時代だね。100年後ももうどうなってるか全くわからないね」

1920年なんて、我々からしたらただの歴史に過ぎず、もうまったく現代と地続きとは思えないほど遠い昔だ。その同じだけの時間を積み重ねたのが、2120年。きっとその未来も、現代と地続きとは思えないほど変わりきった世界になっているのだろう。

ふみちゃんはそんな未来に行くのだ。

実際に100年生きる可能性は高くないとしても、高確率で22世紀にはたどり着くだろう。ドラえもんの時代である。

そう思うと感慨深かった。

 

100年後の未来なんて、あるいは22世紀なんて、自分には関係のないものだと思っていた。しかし自分の子どもはそこへ行くかもしれないのである。そう思うと、もうひとごとではないのだなと感じる。これまでは、環境問題とか、日本の年金制度や少子高齢化も、中国や新興国の台頭も、まあ、わたしが定年退職するときまでに天地がひっくり返るほど劇的に変化することもないだろうし、ある程度は逃げ切れる、などと考えなくもなかったけれど、ふみちゃんの将来を考えると、そんな甘い考えではいられない。

 

わたしも大木くんも、物心つく頃にはバブルがはじけていたので、どんどん景気が悪くなっていく時代しか知らない。だから、無意識に「国は弱くなっていくもの」「景気は悪くなっていくもの」みたいな感覚がある。ここ数年は温暖化の影響か、大規模な災害の頻度もすごいしな。

ふみちゃんも、この先どんどん悪くなっていく世界を生きていかなければならないんだろうか。

そう思うと、こんな先行き不透明な時代に産んでしまって申し訳ないと考えたりする。でもだからこそ、どんな時代でもどんな場所でも強く生き抜く力を、親としては身につけさせてやりたいと思う。(自分たちにもそんな力身についてないくせにね)

 

 

100年後へ行ける、というのは一方でワクワクすることでもある。

わたしたち親はもうそこへは行けないけれど、彼女は100年後、少なくともおそらく22世紀へは行くことができる。

22世紀はどんな時代だった? って、わたしが聞くことはできないのだけれど、その旅を楽しんできてほしいな、と、未来へ送り出す気分。

 

あと20年前後は伴走するけど、それより先は、ふみちゃん自身で進むんだよ。

いってらっしゃい、未来へ。




*1:親の主観です。

*2:第一次大戦は1918年終結