君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

わたしの中の女性差別

自分で自分に対してショックだったので書き記しておく。

先日の出産時のことだ。

 

以前も書いたけれど、わたしは出産時、胎盤が剥がれず結構大変な目にあった。

kinoshita.hatenablog.com

 

分娩は当初助産師2人、医師1人という3人態勢だったが、胎盤が剥がれず、出血も多くて追加でいろいろ処置されることになった。

まず新たに医師や助産師がもう2,3人来て、器具を使って胎盤を剥がそうとしたりガーゼを膣に詰めて応急的に止血する処置がなされた。

その後、「日勤のスタッフがそろって体制が整ったら、カンファレンスにかけてまた別の処置をする」と言われ、9時になってスタッフが入れ替わり、その数は6,7人まで増え、止血してくれた医師とはまた別の医師が用手剥離術(手を突っ込んで胎盤を剥がす)をしてくれた。

 

 

上の記事を書くとき、わたしは意識的にスタッフたちの性別を書いていなかったのだが、実は出てくるスタッフは、医師も助産師も看護師も、全員女性だった。

なのになぜかわたしは、新たなスタッフが入ってくるたびに、「今度は男性医師が来るのかな」と無意識に期待してしまっていたのだ。

白髪混じりのおじさん医師が颯爽と入ってきて、余裕の表情で「さあ、始めましょうか」みたいな感じでスタッフをまとめ、ドラマみたいにあっという間に解決してくれる様を想像した。

しかし新たにやってくるスタッフは女性ばかりで、そのたびにわたしはかすかに落胆、というか不安になったのだ。どうして女性なの、と。そして不安になるたびに、客観的に考えているもう一人の自分が、「なぜ女性というだけで不安になる? 彼女たちの力量がどの程度なのか、実際には何も知らないくせに。逆に男性だから安心という根拠もどこにもない。」とつっこみをいれた。

その通りだ。

そのそもその総合病院の産科は女性医師が圧倒的に多かった。担当医制ではなかったため、出産までに数人の医師に健診をしてもらっていたが、その間に男性医師は1人しか見かけなかった。それも30歳くらいの若い医師だ。その彼と、実際に用手剥離術をしてくれたアラフォーくらいの女性医師と、どっちが優秀か。わたしにはわかりようもないし、普通に考えれば、より経験値の高そうなアラフォー女性医師の方が安心だと思われる。

 

なのになぜあの場で「男性」を望んでしまったのだろう。

以前仕事でクレームの電話を受けたとき、電話に出るなり「女じゃ話にならないわよ。男の人に変わって!!」とキンキン声のおばちゃんに怒鳴られたことがあった。あの時はどうして女性が同じ女性を差別するのだろうと嫌悪感を感じたが、今回のわたしの反応は、あのおばちゃんと同レベルじゃないか。

そんな自分にショックを受けている。

 

 

自分はどっちかというとむしろジェンダーバイアスに抵抗する側だと思っていた。

前の勤め先では、雑務は女性に振り分けられ、メインの仕事は男性に振られがち、女性の管理職もほとんどいない(管理職全体の3、4%くらいだったと思う)だった。あんなろくでもないやつでも男というだけでえらくなれるのか…とイライラするような男性上司がちょいちょいいて、逆に数少ない女性管理職はめちゃくちゃパワフルなかっこいい人しかいなかった。普通の女性にはそもそもチャンスが巡ってこないからだ。

もがいても手ごたえがない。そういう抑圧された感覚があった。そんな社風には嫌気がさしていた。女性差別反対。ずっとここにはいられないと思った。

ので、転職するときはその点がもう少しマシそうなところを選んだつもりだ。

 

そういうわけで、社会に出た最初の数年間で、わたしの中には世に蔓延る女性差別ジェンダーバイアスに対する怒りが醸成されていた。男女の差なく学生時代を過ごしてきたのに、社会に出たとたん二流扱いされるなんて納得できないと。

だからジェンダーバイアスには敏感になっていたと思うし、自分の中にそういうバイアスがあるとは思っていなかった。

 

にもかかわらず、病院では、「より難しい処置の際には男性医師が来てくれる」と無意識で期待していた。

どこでこんなことが刷り込まれていたのだろう。

きっと小さいころから、父が母を敬う以上に母が父を尊敬する家庭で育ち、どこへ転校してもどの学校でも校長先生は男性で、テレビでは男性のメインキャスターのアシスタントを女性が務め、いろんな分野の専門家としてインタビューを受ける人はほとんど男性で、バイト先の店長もいつも男性、という世の中で育つうちに意識下に刻み込まれた感覚があるのだろう。

男性には判断力・決断力・リーダーシップがもともと備わっていると期待し、反対に女性には無意識に繊細さ・丁寧さ・こちらの気持ちに寄り添ってくれる優しさを期待してしまっている。

自分がそういう風にみられることは死ぬほど嫌なのに。(わたしは飲み会でサラダを取り分けられないタイプだ。)

 

 

そういえば、わたしは以前趣味でよく少子化関連の本(と言っても新書とか)をよく読んでいたのだけれど、そういう本には大抵女性活躍に関する章があり、その中で時々出てきた印象的なエピソードがあった。オーケストラのオーディションでのエピソードだ。

1980年代、団員のオーディションの際に演奏者と審査員の間にカーテンを引き、審査員から演奏者の性別がわからないように実施したところ、女性の合格率がそれまでの1.5倍になったという話である。それ以前のオーディションでも審査員たちは性別で差別していたわけではなく、ただ純粋に優秀な演奏者を求めていたにも関わらずこのような結果になったという。

彼らの中には性別に関する無意識のバイアスがあり、耳のいい審査員たちでさえも、女性とわかるとその能力を低く評価してしまっていたということだ。

わたしは元の調査を直接読んだわけではないのでどのくらい信憑性のある話なのかは分からないが、いかにもありそうな話だと思った。だって日頃わたしたちは、性別でなくても、単に容姿で判断されることだって多い。例えば、背が高く、目鼻立ちがはっきりしていて姿勢のいい人と、小柄でお地蔵さんみたいな顔立ちで猫背の人がいた場合、他の条件が同じならたぶんだいたいの人が前者の方が優秀だという印象を受けてしまうだろう。そういう偏見が、男・女という単純な差の間にもあるのだ。

 

 

今回のことで、わたしの中にもそういう無意識のバイアスがあることがはっきりした。

本当にショックで、先生たちに申し訳ないし大いに反省したのだけれど、このことに気付けたことはよかったと思う。

バイアスがあることを自覚していれば、周囲の人を見るときにもっと注意深くなれる。

そしてなにより、ふみちゃんという女の子をこれから育てていく中で、なるべく性別の枠にはめないように気を付けることができる。

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのお父さんが「私は彼女の翼を切らなかっただけだ」とおっしゃっていたけれど、わたしもふみちゃんをそういうふうに育てていきたい。いまのふみちゃんにはいくつもの可能性がある。その可能性のいくつかを、ただ女の子であるというだけで消してしまわないようにしたい。彼女の翼を折らないように育て、彼女には自分の望む場所に自由に飛んでいけるようになってほしい。

 

だから今回のことは自戒を込めてしっかりと胸に刻んでおきたいと思う。