君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

親としての実感が湧かない

生後5日、退院して初めて我が子を家に連れ帰ったとき、もう入院していた頃と違って、気軽に頼れる人はいない、自分たちでこの子を育てていかねばならないのだという事実に少し怖くなった。
手離すことのできない責任を負った。子どもがいたら楽しいだろうと気軽に考えていたけれど、もしかしてわたしは、取り返しのつかないとんでもないことをしてしまったのではないかと、ちらと思った。
なんとしてもこの子を無事に育てねばならない。健康面はもちろん、教育の面でも、経済的な面でも。そう感じた。


が、そういう親としての責任感を抱く一方、「自分は親である」という実感を持てたかというとそうでもない。

わたしの存在を覚えてもらおうと、ふみちゃんには「お母さんはふみちゃんのことが大好き」などと語りかけているが、自分がお母さんである、という間隔にイマイチ馴染めない。
赤ちゃんは言葉を話さない。それどころか、新生児は笑顔を見せることすらない。おそらくまだ本人の意思などはなく、喜怒哀楽の感情すらも持っているかどうかあやしい。あるのはたぶん「空腹」「暑い、寒い」などの「不快」の感覚のみだろう。「不快」が生じると自動的に泣く。それだけなのである。
だからまだ、人間を育てている実感すら乏しいのだ。我ながらなんとも不思議な感覚だ。24時間体制で丁寧に丁寧に育ててはいるものの、どこか新しいペットを飼い始めたようでもある。昨年亡くなった実家の犬を飼い始めたころのことや、子どものころ、妹が拾ってきた子スズメを大きくなるまで育てたことを思い出す。人間かどうか、それも腹を痛めて産んだ子かどうかはすでにどうでもよくなっている。


この子とわたしは、「親子」なんだろうか。「親子」って何?「親」って何?
そんなことを考えながらお乳をあげている。母乳を与えるといわゆる幸せホルモン、オキシトシンが分泌されるらしく、体の内側からふんわりと安心感が湧く。愛情と呼ばれるものに近いかもしれない。が、オキシトシンは何も授乳時に限らず、哺乳類と触れ合えば出てくるものなので、やはり子犬を世話したときの感覚と同じなのだ。
やはり、わたしにとって「お母さん」とは自分の母親を指すのであって、わたし自身のことじゃない、とまだ思っている。

わたしは冷たい人間なんだろうか。
大木くんがふみちゃんに顔を近づけて変顔をしたり匂いをかいだり、高い声で話しかけたりしているのを見ていて、「あれ、わたしはまだあんな風に溺愛できてないな」と思う。子どもが生まれたら劇的に価値観や感情が変わると思っていたのに、わたしはそうでもないな、と。


と、親になった実感がイマイチ持てないままだけれども、ふみちゃんが笑うようになったり、言葉を話し始めるとまた変わってくるんだろう。
「親子」というものがなんなのかまだわからないけれど、それはきっとこれからのわたしたちの関係のことを言うのだろうから、長い時間を一緒に過ごしてみないと答えは出ないよな、と思う。