君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

リビングの陽当たりが悪いから、こんなときもある

くーちゃんが生まれて2ヶ月がたった。

大木くんの育休も終わって、わたしはひとりぼっち。いや、くーちゃんがいるからふたりぼっち。

妊娠後期から、動くのがつらくて土日にふみちゃんを公園へ連れて行くのを大木くん一人に任せていたりしたのだけど、そのせいか、それとも出産後くーちゃんにかかりきりになるわたしを見て母はもう自分のものではないと思ったのか、最近ふみちゃんは大木くんにべったり。わたしが抱っこしようとすると「おとうさんがいい!」と言って泣いたりする。

少し前までは「おかあさんがいい!」と言って泣いていたはずなのにな。

そんなふうなので、夫婦で完全に「担当」が分かれてしまって、家族四人でいてもわたしはくーちゃんとふたりきりでいるような気分になったりする。

なんだか大木くんとふみちゃんがガラスの向こうにいるような。

いや、実際にはふみちゃんとわたしのふたりで遊んだり一緒にお風呂に入ったりしてもいるのだけど。

 

くーちゃんはふみちゃんの赤ちゃんの頃よりも、よく親の目を見る。親というか、わたしの目を。授乳中もじっとこちらを見ている。

くーちゃんは特にわたしに似ているわけでも大木くんに似ているわけでもない。これと言って特徴のない顔をしている。けれどガラス玉のようなその目を見ているとなんだか自分自身を見ているような気分になるから、少しはわたしに似ているのかもしれない。しかし自分を見ているよう、というのは、どっちかというと姿かたちの話ではなく、概念としての「自分」なのではないかと思う。

くーちゃんを見つめながら、わたしはくーちゃんの目からわたし自身を見つめているのだ。それで、自分自身から見つめ返されているような気分になってしまう。

ついこのあいだまでおなかの中にいて、今もずっと離れることなく過ごしているし、本人はまだ自我らしい自我もないから、わたしの中でまだはっきりと彼との自他の境界を作れていないのだと思う。

 

あまりいいことではないだろう。彼にもいつか自我を確立してもらい、しっかりと自分の足で自分の人生を生きていってもらわねばならないのだから、親の方からきちんと線を引いてやらねばどうする。

そんなふうに子に対しての罪悪感を抱きつつ、どこか温かくて心地いいのも確かで、わたしはうとうとするくーちゃんをぼんやりと抱きかかえて無為に過ごしたりしている。

抱きながら、抱かれている。

わたしの意識はくーちゃんそのものとなって、母親に抱かれてその温かさの中で眠る。これ以上の安心はない。

ふたりだけの世界に、いや、わたしひとりだけの世界に、どんどん閉じていく。