君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

あなたといるときのわたし

何年かぶりにインフルエンザに罹った。

何年かぶりに予防接種を受けたというのに。

そんなわけで年明け早々仕事を休んでいる。と言っても今日はもうすっかり回復していて、朝から洗濯物を干したりなんかしてつかの間の専業主婦気分を味わっているわけだけど。

 

正月に大木君の実家に帰省したらお兄さんがインフルに罹っていて、そこからもらったようだ。

東京に帰る日に熱が出てきて、しんどすぎて飛行機に乗れないかと思った。

動物園を少し早めに切り上げ、飛行機の時間まで市内のラブホテルで少し休んだ。こういう時大木君は、無言で一緒にいてくれ、率先して荷物を持ってくれたり飲み物を買ってきてくれたりする。

わたしがリュックの中から荷物を取ろうとすると、「取ってあげる」と素早く動いてくれる。わたしが感動して「人からこんなにやさしくされたことはないよ」というと、「私はいつも優しくしてるつもりですよ」とのこと。

大木君の優しさが、わたしの病気によりいかんなく発揮され浮き彫りになっただけのようだ。

実際、大木君は優しい。一緒に暮らす前より今の方が優しくて、こんなに優しい人だったっけと驚くことも多々。もっとドライで合理性の方が勝った人だと思っていたのに。何か魔法でもかかっているなら絶対に解けませんようにと願いながら暮らしている。

 

 

さて、インフルが治ってきて暇なのでTEDを見ていたら、平野啓一郎のプレゼン(日本語)が出てきた。2012年のもののようだが初めて知った。へえ、この人も出ていたのかと興味本位に視聴していたら、不覚にも泣いてしまった。(病み上がりなのですぐ泣く。)

プレゼンは、「自己を愛するために他者を愛しなさい」というものだったが、その中で心に刺さったのはこの部分。

誰かを失ってしまう悲しみは、もちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、色々なことがあると思いますが、もう一方で、その人の前でだけ生きられていた自分をもう生きることができないという寂しさがあるんじゃないでしょうか。

 そうだなあ、わたしも大木君と一緒にいるときが一番優しさを発揮できていると思うし、大木君がいなくなったらもうこのわたしはある意味いなくなるのだなあ、、、と思うと泣けてきた。

大木君に出会ってから、それまで二十年以上感じてきた自己嫌悪、劣等感みたいなものが徐々に薄れている。たぶん、前よりわたしは明るくなった。

大木君のおかげだ。

 

でも、大木君にとってもわたしはそういう存在に近いのかな、とも思えた。

以前、わたしのどこが好き?と聞いた時、「びょーんてできるところ」と言われたことがある。意味不明だけど、「びょーん」というのはおそらく、二人でソファにかけているときに大木君がわたしの太ももに両足をのせて横になる体勢のことを表しているのだと思う。本人も「びょーん」という擬音を発することがあるし。わたしの前ではくつろげる、ということなのかなと好意的に解釈した。

わたしといると、大木君は自分のことを好きでいられる、そんな存在であれたらいいな。

 

お互いに、この人のことが好き、この人といるときの自分が好きという状態でありますように。であれば、わたしたちはずっと幸せでいられる。

 

 

参考:平野啓一郎 「自己を愛するために他人を愛しなさい」(TEDxKyoto2012) | TED Talk