君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

わたしがいるからだいじょうぶだからね

先日、くうちゃんがまた熱を出したので仕事を休んで家で見ていた。

通っている保育園からは、兄弟が休みなら上の子も休ませろとか親が有給なら子どもも休んでとか言われたことがないので(たぶん、もともと認可外から出発している園なので、保育要件に対する感覚がゆるいのかなと思っている)、くうちゃんが休みでもふみちゃんは普通に登園していた。

 

夕方、大木くんと帰ってきたふみちゃん。開口一番、「おかあさん、さみしかった?」と聞く。

うん、ふみちゃんがいないとさみしいね、と答えると、

「くうちゃんとふたりだとさみしいね。ふみちゃんとおとうさんいるから、もうだいじょうぶだからね」と言う。まだ発音がたどたどしく、ひとことひとこと、一生懸命な口調で発言している。

しかし、いっちょ前なことを言うようになったな、と笑ってしまった。

 

少し前までは、他人を気づかうような発言も、単に今現在の自分の気持ちを投影しているだけだったりした。

たとえば、お祭りに行ったときにくうちゃんに「太鼓の音大きいね、こわくないからね、だいじょうぶだよ」としきりに声をかけていたが、当のくうちゃんは別になんてことなさそうな顔をしていた。怖がっていたのはふみちゃんで、自分の気持ちを弟に投影して励ましていただけなのだった。

 

でも今回のはちょっと違うような気がする。自分はにぎやかな保育園でさっきまで過ごしていたのだ。ふたりぼっちで過ごしていたわたしとくうちゃんを慮っての発言だろう。

いや、これも単に大木くんと二人きりの帰り道が少しさみしかったのかな。いつもはくうちゃんもいるのだから。

まだまだ、純粋にひとを心配するのは難しいのかな。

 

それでも、こういう経験を重ねて、だんだん人らしくなっていく。

それを傍らで見るのが面白い。

どうやらやさしい言葉をかければかけるほど彼女の中でそれが蓄積されて、自らもやさしい言葉を発するようだ。それが面白い。うれしい。