君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

生まれてきてよかったと生まれて初めて思った日

生理が来ない。

水曜日、妊娠検査薬を試したら陽性反応が出た。

慌てて大木くんと一緒に昨日の土曜日に近所の婦人科に検査に行ったら「まだわからないからまた来週来て」と言われてしまったので、本当に妊娠しているかはわからないのだけれど。

わからないのだけれど、でも、大木くんとの会話の中で、「もし本当に子どもができてたら」という話題が増えてくる。わたしたちは数日前から急に未来を具体的に描き出した。

 

 

今朝、家事の最中に、保険かなにかのCMで、「お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう」とか、そういうセリフをしみじみと言っているものを見た。

ちらっと見て、「そうね」と思って家事に戻りかけ、そう思った自分にはっと驚いた。

 

これまでのわたしだったら、「わたしは、親には育ててくれたことには感謝するけど産んでほしくはなかったな」などと思っていたはずだ。

今は不幸より幸福の方が多いけれど、これまでずっとしんどかったしこれからだって一寸先は闇だし、人生100年時代、あと70年も社会の中で周りに気を使いながら生きていかねばならないのは苦痛でしかない、と思っていたのではなかったか。

人生がついこのあいだまでと全く逆方向を向いている。

自分で自分に驚いて、「今わたしは生まれてきてよかったと思っているのか?」と自問してみると、何でもなさそうに「うん」と自答された。

驚愕。

 

これが妊娠するということか。

 

妊娠した(と思っている)から、ヒトとしての一番大きな役割を与えられた気になって自尊心が高まっているのだろうか。

ヒトにとって子どもをつくるということはそれほど大きな意味を持つのか。

ヒトはそれほどまでに本能として、次世代にバトンをつなぐ歯車になりたがっているのだろうか。

種の保存に貢献できるから自分の生命には価値があった、と、そう感じているのだろうか。

 

 

ちょっと怖いくらいの変化だった。

だってこの変化は、言い換えればすなわち、「わたしの人生、子をなすこと以外大した意味を持たなかった」ということになりはしないか。

 

 

いまは、少し抗いたい気持ちがある。

上記のことを肯定してしまうと、じゃあ流産して今後子どもを産めなかったらわたしたち夫婦のヒトとしての価値は何だということになるし、わたしは十代、二十代のころ、「結婚して子どもを産め」と親や親戚に言われることが本当に嫌だったから。「子どもを持つことが一番の幸せだ」とか「親になってはじめて親のありがたみがわかる」だとか上から目線で勝手に決められたくなかった。それなのに、わたし自信が「子どもを持つことが人間の一番の幸せだ」とか言い出したらどうなる。苦しんできた若い頃のわたしが浮かばれないじゃないか。

今後子どもが生まれて大きくなっても、わたしは結婚や子をなすことが最上とは子どもには言いたくない。人生で何が大事かなんて、その人自信が決めるべきだと思う。

ただ、きっとその人が幸せにならないことには「生まれてきてよかった」とも「産んでくれてありがとう」とも思えないのは確かなようだから、子どもを産むとしたら、責任もって幸せになるすべを身につけさせないといけないなとは思った。

 

 

今後、この感覚が、価値観が、どう変わっていくのか、今の時点では全く分からない。

でも今日のこの変化は一つのキーポイントになる気がするので、記録しておこうと思う。

 

 

まあ、こんなふうに思ったのは、もしかしたらたまたまこれが日曜の朝だったせいかもしれないけれど。

この週末は、金曜の朝から頭痛がして、しかも妊娠しているかもしれないため安易に薬を飲むわけにもいかず、結局耐えきれずに仕事を早退して土曜日の夕方まで寝込んでしまった。その痛みからようやく解放されたので今朝は気分がとてもよく、そしてまだ仕事に戻らないでいい日曜の朝だから、きっと普段より心に余裕があったのだと思う。

その余裕ゆえにあんな風に感じただけかもしれない。

また残業が増えて体調を崩してミスが増えれば気分なんてころっと変わるだろう。

 

この先も、例え子どもが生まれたって、また自尊感情がずたずたに低くなることもあるだろう。そのとき今日と同じように「生まれてきてよかった」と思えるかどうかは、今は何もわからない。

 

 

ただ、大木くんには言いたくなった。「わたし、生まれてきてよかったかもしれない」

 

 

現段階では流産などの可能性もあるから、まだ言わないけれど。