君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

原爆の日に寄せて

8月6日は広島の原爆の日。大木くんと少し話をした。

戦後74年もたつとどんどん風化していくのがわかって怖いね、昔はもっと戦争のことが地続きだったけど、というと、どうして?と聞かれたので
「昔は戦争のことを語ってくれる人が身近にいたもの」
と答える。

わたしの祖父は二人とも軍の経験がある。そして、母方の祖父は原爆投下直後の広島に入って被爆しており、父方の祖父は原爆で兄をなくした。
また、子供の頃は8月に祖父の家に長期滞在していることが多くて、原爆の日はみんなで式典の生中継を見たりしていた。
そして、祖父からはたまに、当時の話を聞かせてもらっていたのだ。
けれど、二人とももう亡くなってしまった。


でも大木くんは、祖父から戦争の話を聞いたことはないのだそうだ。おじいさんは戦時中軍人として中国などへ行っていたそうだが、当時のことはあまり話したがらなかったのだという。

「うちの母親がいうには、じいちゃんは末端の兵士としてじゃなくてそれなりの立場の人間として行ってたみたいなんだよね。そこで子どもには語れないような残虐なことを指示したりしてたのかもしれない」
という。
被爆者など、一方的な被害者であれば、傷がある程度癒えた頃に他者へ話すことのできる人もいる。けれど、加害者としての記憶はなかなかそんな風には話せないからね、と大木くんは言った。

「そうなんだ」
複雑な心持ちになって、わたしはなにも言えない。


学生の頃インターンで行ったインドネシアで聞いた、戦時中の話を思い出した。
インドネシアでは、その前の3世紀にわたるオランダ占領時代よりも日本に侵略された3年間の方がひどかった、と言われている。
「この辺りにも日本軍が来て、食料は捨てられ、女性はレイプされたのよ。恐怖を植え付けるために彼らはそういうことをした。今も傷が癒えない人たちがいる」
インターン先の児童養護施設の女性はそう教えてくれた。
日本がそんな悪いことをしていたなんて当時のわたしは知らなくて、聞いたとき恥ずかしくて悲しくて申し訳なくてぼろぼろ泣いてしまったのだった。


そして今その話と大木くんのおじいさんの話がつながる。
戦時中に重大な人権侵害を犯した日本人はたくさんいる。そしてそういうことを戦略として取り入れ、部下に指示した人も。
それはわたしたちの祖父や曾祖父かもしれないということ。

もちろん、大木くんのおじいさんが戦時中何をしたかはわからないのだけれど。おじいさんももう亡くなっている。



「でもそういう話こそ語っていかなければいけないかもね」
とわたしは言った。
被害だけ語り継ぐより、よほど戦争のむごさや怖さ、汚さが伝わるだろう。
そうだね、と大木くんも言った。

けれど当時指揮する立場にいた人なんてもうほとんど生きていないし、健在だとしてもやはり自分からは話せないことだろう。
戦争とはそういう、人には話せないことをたくさん作ってしまうものなのだ。そのことは平和な時代を生きる人間としても知っておきたい。