君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

母の日に花束を

ネットでポチポチっと注文。

母親のことはそんなに好きでもないし感謝も尊敬もしていないけれど、大事な人ではあると思うので、とりあえず社会人になってからは毎年何かしら送っている。

 

花キューピットで頼むと、「お母さんいつもありがとう」というメッセージカードを選べるので、それをつけてもらうことにする。

自分の口からは出てこないセリフだ。

 

何だろう、毒親というわけではないと思う。

ただ、母が大事にするものをわたしは苦手で、わたしが好きで得意とするものに母は価値を見出してくれないという関係だったので、わたしがいくら得意なことで頑張っても母はさして喜んではくれず、むしろ「そんなことよりあっちをもっと頑張りなさい」と叱られてしまっていた、そんな子供時代の記憶がある。

 

だから、わたしは母の失敗作なのだと、二十代前半くらいのころは思っていた気がする。

母の方もわたしのことはそれほど好きでないのだろう、去年は十数年ぶりの家族旅行にわたしだけ誘われなかったし、実家からはわたしの卒業アルバムだけいつの間にか全部なくなっている。

アルバムについては、別に悪意を持って捨てたとかではなく何かの時にしまいこんでそのまま場所を忘れてしまっただけなのだろうけれど、妹たちのもの比べると、なくしても気にならない、というのが母にとってのわたしかなと思う。


 

別にいいけどね。

わたしにはもう親から独立した生活基盤、経済基盤があって、明日親が死んでも困らない。もう、過去にどんな風に愛されていたかは今の自分の人生に影響しない。そんなところまで来た。

 

 

もし、これから子供ができて、その子がわたしのことをそんな風に思ったとしたら、複雑だろうなあとは思う。自分の人生を子どもが否定してくるようで。

でも、子どもが、自分が育つ中で親とは違う価値観を身に着ける可能性は普通にある。子どもは親の分身ではないと身をもってわたしが知っているわけで、そこを否定するわけにはいかない。

なので、それはそれでその子の成長だと受け止めて見守るしかないのでしょう。

 

けれど、それでも家族は家族。

好きとか嫌いとか、一緒にいたいとかいたくないとかには関わらず何かしらの関係は続く。そう思っている。

それに、たとえ嫌いでも遠く離れていても関係は続く、選べない、というのは、ある種の安心にもつながるように思う。

 

だから、母の日には贈り物を。

 

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母から、届いたとの連絡があった。

妹が今年はお菓子を送るそうなのでわたしは花にしたのだけど、まあこんな風に年に一度実家に彩りを届けることができるのはいいことかなと思っている。


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今日のおやつ。気になるリンゴ。このあいだ両親からもらった青森のお土産である。



今週のお題「母の日」