君の木の下

夫婦と子どもふたりの日常備忘録

妊娠初期の体と心境の変化の備忘録(自分用)

妊娠してから3か月以上がたち、安定期に入った。せっかくなので、これまでの経過をまとめておこうと思う。次に妊娠したとき用の備忘録と、生まれた後にたまに思い出に浸る材料として。

 

 

妊娠3週~4週

体調:胸が張ってくる。食欲が増す。便秘になる。のどが渇く。

とにかく食欲が増してマラソン大会前なのに1キロくらい増えてしまった。

この段階ではまだ妊娠したことに気が付いていなくて、単に生理前の現象だと思っていた。いかんせんピルをやめてまだ2ヶ月ほどだったから、生理不順だったのだ。基礎体温も一応つけてはいたが、グラフは曖昧なギザギザを描いていて確信は持てない感じだった。4週の終わりごろ、まだ生理が来ないので「これ妊娠なんじゃないか」と感じ始める。大木くんに検査薬を買ってきてもらい、使用したらうっすらと陽性の反応が出た。

その他:インフルの予防接種を受けた。マラソン大会で42.195キロ走った。頭痛薬、胃薬を飲んだ。マラソンの後はビールを飲んだ。

 

5~6週

体調:妊娠5週の金曜、頭痛で体調が悪くなるも、「妊娠中って薬飲んじゃいけないんじゃないか」と我慢してみたが、こらえきれなくなって仕事を早退。翌日も頭痛がひかないため、とりあえず妊娠中も飲める薬を求めて近所の婦人科クリニックへ。

診察:大木くんと一緒に診察室へ入って、そのまま診察された。夫の目の前で股の間に器具をつっこまれているこの状況、いいんだろうか。

1回目の診察では歪んだ形の胎嚢は確認できるが心拍は確認できず。翌週もう一度クリニックへ行ってようやく妊娠が確定。おなかの中の袋に丸い粒があって、心臓が白くちかちかと明滅していた。

心境:妊娠が確定した日、そのまま大木くんと書店へ行って「初めてのたまごクラブ」を買った。うちに帰って二人並んで寝っ転がり1ページ目から最後のページまで読み込んだ。これは……俗に言う「幸せ」というやつかもしれない。

その他:最初の診察ではカロナールを処方してもらった。現在に至るまで、だいたい週に1,2回程度服用している(もともと頭痛持ちなので)。 

 

7~8週

体調:毎朝4時ごろ、空腹のせいか尿意なのか目が覚めるようになった。空腹は放っておくと気持ち悪くなるため、個包装のお菓子をたくさん買って常備するように。

切迫流産:8週の頃、検診に行くと赤ちゃんはだるまのようなシルエットで週数どおり成長していたものの、「明日から仕事休んで安静にしてください」と突然言われる。絨毛膜下血腫という状態になっていて流産の危険があるらしい。自覚症状はないのだが。

翌日1日だけ出勤して上司に話し、その翌日から休むことにした。年末年始の長期休暇目前だったのでとりあえず有給で。

心境:自覚症状もないのに休んでいいのんか? とどうしても思ってしまう。

 

9~10週

体調:安静にしていて体を動かさないせいか、あまりたくさん食べられなくなった。ただし早朝に目が覚めてお菓子を食べてしまうのは変わらず。漬物が食べたくて毎日食べるように。浅漬けうまい。

その他:正月にわたしの実家(広島)へ帰るのはキャンセルし、この時点で両方の実家へ報告をした。お義母さんからたくさん調理済みの食材などが届くようになる。ありがたや。

新年のあいさつのため実家に電話をしたところ、わたしの母から「大木くんも大変ね」と労られ、それ以降大木くんががぜん家事をやってくれるように。

 切迫流産:10週目、突然の出血と生理痛のような軽い鈍痛にびっくりして近所の婦人科へ行くと、「血腫が大きくなっている。これは入院した方がいいかも。紹介状書くから今から提携先の総合病院へ行って」と言われる。

が、総合病院は貧血など母体に危険がない限りは入院の措置は取らない方針らしく、そのまま家へ帰された。行き帰りはタクシーを使った。

心境:職場にまだしばらく出られない旨を連絡すると、「1日だけでも出てきて引継ぎをやってくれないか」と言われた。そうしなきゃいけないのだろうと思ったが何かあったとしてもだれも責任が取れない事態であるため、怖いので断った。

お腹が痛むと、「このまま流産するんじゃないだろうか…」などと不安になって、余計におなかが痛くなるような気がしたので、そういう時はコメディドラマのネット配信を見て気を紛らわしていた。『俺の話は長い』には感謝している。

 

11週~13週

生活:怖いのでもう家事は全部大木くんにやってもらうことにした。1日のうち20時間くらいを布団で寝て過ごす。寝っ転がったままPCを使える台とか、ペットボトルに装着するストローなどをAmazonで買う。ネット動画には飽きてきて村田沙耶香の本を立て続けに何冊か読んだりしていた。

体調:ほんの数日だけ、雑炊しか食べられない日もあったがすぐに終わった。おなかが空くと胃が気持ち悪いのと、漬物を毎日食べたがる以外はつわりらしいつわりもなく。体重に変化なし。腹痛や出血は次第になくなった。夜寝つきが悪く、何度も目が覚める。

体形:13週に入ってからすこーしだけおなかの下の方が膨らんできた。少しずつだが、確実に毎日大きくなっているのがわかる程度。

その他:漬物は塩分が気になるので途中から千枚漬けやピクルスにした。ピクルスうまい。

 

14週~15週

検診結果:14週の検診で血腫がほとんどなくなっているのでもう日常に戻ってよいと言われる。甲状腺の値に異常が見つかったのでホルモン剤(チラージンS)を処方される。

生活:仕事に復帰する。通勤緩和で朝30分遅く出勤し、帰りも電車が混む前に帰るべく定時退社するように。その分、昼休みに少し仕事をするようになった(ほぼ周囲へのパフォーマンス目的だが)。毎日夕食を作るようになった。

体調:漬物ブームは終わった。職場復帰して毎日動くようになったせいか、夜はぐっすり眠れ、早朝に目が覚めることもなくなった。おなかが空いて食欲も回復。体重は13~14週ごろ一気に1キロほど増え、その後横ばい。妊娠前と比べると2キロほど増えている。

体形:ぴったりした服を着ているとおなかが目立つように。とはいっても、「あの人、腹回り結構出てるんだな」と思われる程度の変化だが。

 

全体を通した変化

体の変化:胸のサイズは2~3カップ増えた。便秘はひどくなる一方で、ヨーグルト、オリーブオイル、青汁、わかめ、ナッツと、あらゆる飲食物を試したが、結局酸化マグネシウムを処方され、薬に頼るように。頭痛の頻度は減らないが、痛みの度合いは弱くなった。片頭痛は妊娠すると軽くなるらしい。

心境の変化:10週の時、初めてエコーで赤ちゃんが動いているのを見て、「生きてる!」と感じた。それまではあまり自覚がなかったが、それ以降おなかに生き物がいるのだと感じるように。おなかが大きくなり始めてからは「人間がいる」という感覚へ変わっていった。テレビなどで赤ちゃんを見ると「もうすぐ我が家にもあの可愛いぷにぷにがやって来る」とわくわくする。最近は待ちきれない感じ。初めの頃は「流産の可能性もそこそこあるんだ」と心に予防線を張っていたのが、最近は安心して子どもが生まれる未来を想像できるようになってきたというのもあると思う。数週間前から妊婦用のアプリなど入れて毎日何かしらの情報を読んでいる。大木くんにはパパ用のアプリを入れてもらった。

仕事:組織の人間関係というものが苦手なので、職場行かなくてよくてラッキーという気持ちが全くなくはなかった。正直、自宅安静が解除されたときは「え、もう…?」と思ってしまったりした。けれど、その後職場へ電話すると「木ノ下さん!よかったー!」と喜んでもらえ、おかげで頑張る気持ちが出てきた。職場復帰してしばらくたつが、定時退社するため仕事にメリハリもついて、いろんなことに対し割り切りの気持ちも身につき、以前よりすっきりした気分で働けているような気がする。ただ、プレッシャーがかかるとおなかがピリピリと小さく痛む。

自宅安静が終わって:切迫流産がなくなって、料理ができるようになったのが嬉しい。大木くんは週末しかご飯を作ってくれなかったので平日はお惣菜かコンビニ弁当だったのだ。嬉しくて治ったその日はブリを焼いた。

出掛けられるようになったのもうれしい。その日のうちに美容院へ行き、翌日は大木くんと近所にケーキを食べに出かけた。その10日後には吉祥寺の美術館へ行き、スープカレーを食べ、有名ケーキ屋で行列に並んだ。アテスウェイのケーキうまい。

 

 

だいぶ端折ったが、初期の変化はこんな感じ。

短くていいからもっとこまめに書いておけばよかった。

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自宅安静が板につきすぎて(快適)

たぶんもっと申し訳なさそうに、あるいは暇でつらそうにしていないといけないのだと思うが、切迫流産での自宅安静が楽すぎてこのままニートになりたいと思ってしまう。

現在12週。このあいだの検診でも症状は変わっていなくて、自宅安静期間が延びた。いつまで続くのかはわからない。

 

今の生活内容を記録しておくと、

朝、大木くんと同じくらいの時間に起きて大木くんを見送りつつのんびり朝ごはんを食べる。

歯磨きして布団に横になる。

寝ながら本を読んだりスマホをいじったり動画を見たり勉強したりする。

おなかが空いたらレトルトのカレーなんかを食べる。

食べ終わったらまた寝ながら本を読んだりする。

夜になったら大木くんがお弁当などを買って帰ってくれるので、一緒にそれを食べる。

お風呂に入ってまた横になる。

 

こんな感じ。

なお、ノートパソコンスタンドを購入したので、寝ながらでも動画視聴やブログ編集は快適に行える。

家事は、以前はやっていたのだが、一度クリニックで「悪化してるから入院した方がいいかも」と言われて以来やらなくなった。大木くんもわたしにやらせたがらなくなった。ここ最近は出血もないので、食器洗いなど簡単なものだけ少しやっている。

 

夜帰宅すると、大木くんは真っ先に寝室のドアを開けてくれる。寝たまま彼に手を振ってお帰りを言う。大木くんはにこにこと「ご飯買ってきたよー。食べよう」と言ってくれる。

動物園の飼育動物にでもなった気分だ。飼育員さんがエサをくれて、檻の中を掃除してくれる。外に出たい気もするが、中は安全だし、慣れてくると快適。むしろ外に出るのが億劫になってくる。

動物たちが飼育員さんになつくように、わたしも餌付けされていく。もしもわたしが大木くんのことがたいして好きじゃない状態で結婚していたとしても、自宅安静をきっかけに好きになっていただろうな、と思う。ごはんくれる人だから。

わたしは本を読むのが好きだし、もともと他人とつながりたいという欲求は乏しい方なので、退屈ではあるが、この暮らしにさほど不満はない。

 

 

このあいだ職場に連絡をした。

なるべく申し訳なさそうな声色を作って「安静期間がのびてしまいまして…」と謝っていると、「ネガティブになるのは体調に良くないだろうから、気にせずすごしてね」となぐさめられてしまった。

罪悪感をあまり抱いていないことに逆に罪悪感を感じる。

実は去年、他の社員が急に病休に入ったためわたしもそのしわ寄せをくらった。あのときは終わらない仕事を前に「わたし、死ぬのかな」などと感じながらなんとかこなしていった。その経験があるため、今職場の人たちがどんなに大変かはわかっているのだけれど、その経験があるためにかえって、「あの時わたしは頑張ったのだから、今回ちょっと休んだって許されるでしょう」と開き直ってしまってもいる。

転職前の職場でも、同じ係の先輩が数週間の介護休業を取ってその間代わりに仕事をやっていたこともあるし、そういう時にわたしは「簡単に休みなんかとりやがって」などという気持ちにはならなくて、こういうのは「お互い様」でしょう、とどうしても思ってしまって、自分が休む立場になってもあまり申し訳ない気持ちにならない。

 

 

いいのかな、こんなに楽で。

まるで、毎日が冬休み。

まあたまには腕によりをかけて料理しておいしいごはんを食べたいという気持ちもあるし、あんまり長引くのはいやだけれど。筋トレや運動もしたいし。

 

とは言え、ひどい人は入院になってお風呂も入れず、トイレすらベッドの上というほぼ監禁生活みたいな措置がとられるそうで、さすがにそれはかなり辛そうなので、わたしもこれ以上悪化しないように、今はちゃんと毎日寝ていよう。

という結論にしかならない。

 

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写真は休日のご飯。

休みの日は大木くんがご飯を作ってくれるようになった。大木くんの料理スキルはどんどん上がっている。ごはんおいしい。大木くんすき。

 

二十歳の時に持っていなかった幸福を、今すべて持っている

二十歳の誕生日がどんな日だったか、今も覚えている。

 

大学一年生の夏休み中で、その時期は特にサークル活動もなかった。

サークル仲間に事前に誕生日を吹聴したりもしていなかったが、かと言って誰からもおめでとうメールの一つも届かないとは、自分の存在は随分軽いのだと思い知った。

 

初めての一人暮らしで、こんな事態になるとは想定していなかった。

関西の大学に行った友達からは、「仲良くしてるグループで、誰かが誕生日を迎えるたびにパーティーをやる」だとかキラキラした学生生活を聞いていて、わたしもきっとそれが標準的な学生生活なのだと思っていたから、標準を大きく下回るこの事態は惨めでとても受け入れられなかった。

 

なんとか近所に住んでいる同学部の友人をご飯に誘い、その辺のカフェで晩ごはんを食べたが、それほど頻繁に仲良くしている相手でもなかったため、会話はまったく盛り上がらなかった。「今日わたし誕生日なんだ」とは、最後まで言い出せなかった。

 

その年、ラジオで誰かが、「誕生日をたくさんの人に祝っていただきました。誕生日はその一年どれだけ人に愛されたかがわかる日だと思う」などと語っていた。そうか、わたしは誰にも愛されていないのだ、と思った。そのことが、悲しいよりも、恥ずかしくてたまらなかった。

 

学生時代はその恥ずかしさを埋めるために迷走し、ずっと迷子のままだったような気がする。

 

 

そういえば成人式もわたしは行かなかった。

その年の冬休みは海外にボランティアに行っていて、そこから東京に戻ってきたその週末に今度は広島まで行かねばならないというのが億劫だったというのもあるが、中学時代の旧友に会うというのが多分一番億劫だった。

 

成人式は基本的に地域ごとにやるから、中学校単位で集まると聞いていた。しかしその中学校には途中で引っ越してきたから1年ちょっとしか通っていない。かなり遠い高校に進学したため、同じ高校に進学した子も一人もいなかった。

 

高いお金を払って着物をレンタルしてわざわざ着飾って、たいして仲良くもないあの子たちに会う。で?それでどうする?それでどうなる?

と思ったら行く気にはならなかった。その時はそれでいいんだと思った。行ってもしょうがないし。

 

 

式といえば、大学の卒業式も行かなかった。

わたしは留年していたから、わざわざ袴を着て知り合いが誰もいない卒業式に行っても何にもならない。

わたしは、誰にも知られずひっそりと卒業した。

卒業したところで、就きたい仕事に就けるわけでもない。その時はいろんなものがどうでもよくなっていた。

 

 

 

成人式やら卒業式やら、そういうものにわざわざ着飾って集まるのは、何の生産性もない意味のないことだと思っていた。自分では特に気にしていないつもりだった。

けれど、結婚式をするかしないかで話し合ったときに、それを肯定しきれなかった。

 

結婚したのは29歳の時だ。

大木くんは合理的なタイプで、「キノちゃんがやりたいならやるけど、やらなくてもべつにいい」と言った。彼に合わせて合理的に話を進めていくと、結婚式をやる必要性はないという結論に達しそうだった。当然だ。あんなもの金がかかるだけで後に何も残らない。もともと結婚願望があったわけでもなし、式もやりたいわけじゃない。それでいいんだ、と思った。でも何か引っかかった。

 

結局、やりたい、とわたしは言った。全然合理的じゃないと思いつつ。

 

でも結婚式はとても楽しかったのだ。

神社での家族挙式としたから、集まったのはほんの数名。

だが、白無垢で境内を歩くと、居合わせた参拝客がたくさん祝福してくれた。小さな子どもたちが大きな声で「おめでとうございまーす」ってなんどもなんども叫ぶように、手をふってくれた。

その日はずっと、笑顔が止まらなかった。

式の後の食事会は、ミシュラン一つ星のカジュアルなフレンチレストランを貸し切って。

次々と驚きで満ちたおいしい料理が運ばれてきて、話が尽きることがなかった。気さくなウェイターさんと打ち解け、最後にはシェフが自らフロアに来てくれて一緒に写真を撮った。

あのあと年末に大木くんの実家へ帰ると、お義父さんが幸せそうに「あの日は本当に楽しかったなあ」と言っていて、それを聞いてわたしも幸せだった。

誰かと一緒に何かをお祝いすることが、こんなに心に残るものだとは知らなかった。

 

誕生日は、毎年大木くんがお祝いしてくれる。「一年に一回くらいは何かにかこつけて高い料理を食べたいからさ」などと嘯いて、いつも素敵なお店を予約してくれるのだ。

 

 

 

こう振り返ると、二十歳のころ持っていなくて惨めだったもの、いらないと投げやりに言ったけれど本当は心のどこかに引っかかっていたものを、いま全部持っているのだなと思う。

仕事も、就きたくもない仕事に就いた後、結局転職していろんなものが少しずつマシになったしな。

 

 

人生全体の幸・不幸の割合がもし決まっているのだとしたら、二十歳の頃は不幸の方に偏っていたのだろう。その分今は幸福の方にかなり偏っている。そうやって辻褄が合うようにできているのかもしれない。

 

なんて。そんなわけないか。

 

 

 

今週のお題「二十歳」

妊娠10週 絨毛膜下血腫 自宅安静

いつの間にか、年が明けて一週間以上たっている。

あけましておめでとうございます。

わたしは今これを寝ながら書いています。

 

寝ながら、というのは比喩でも何でもなく、布団に入っておなかの上にクッションを置き、その上にノートパソコンを置いてこれを書いているのだ。

 

絨毛膜下血腫だから明日から仕事休んで安静にしてね、と近所の婦人科で突然に言われたのが12月23日。

悪化してますね、ちゃんと安静にしてますか?と言われてしまったのが1月6日。

出血と腹痛で慌てて病院に行ったら、さらに悪化しているのがわかったのが昨日。

 

 

絨毛膜下血腫というのは、赤ちゃんが入っている袋と子宮の間が剥がれて、そこに血がたまっている状態のことを言うそうだ。これが広がって子宮から全部剥がれてしまったら、当然ながら流産となる。対処法はないそうで、ひたすら安静にして、血液が自然と吸収されるのを待つほかないのだという。ただし、安静にしても、流産を確実に免れられるわけではない。

わたしの場合、最初に診断されたときは2センチ程度だった血腫は、おおむね安静にしていたのになぜか6センチを超えてしまった。

 

 

というわけで仕事も行けず、ひたすら暇と闘いながら横になっている。

現在妊娠10週。

幸いにしてつわりはほとんどなく、自覚症状も大してないので、huluなんか始めてみたりしてお気楽に動画を見ている。ただ、食事やトイレ、お風呂以外はずっと布団の中だ。当初は家事もしていたのだが、次の検診で悪化していたので怖くなってもう全部大木くんにお願いすることにした。

寝てばかりで腰が痛いので、今日は思わず3万円の布団を楽天でポチってしまった。

もちろん仕事も行けない。布団の中から恐縮しながら電話を掛けたりメールをしたりして、他の人に仕事をお願いした。

 

最初に診断を受けた後は職場に申し訳ないし本人に自覚もなかったので、1日だけ出勤したのだが、その後の検診で悪化していたので、もう何を言われても治るまでは行かないと決めた。

 

このあいだの検診では、エコーの映像から、赤ちゃんが手を動かしているのが見えた。

まだ3センチしかないのに、ちゃんと生きている!

そう思うと、安易なことはできないなと思った。

 

 

正直、妊娠くらいで休みをくれる会社、というか日本社会は過保護なんじゃないかなんて思ったりする。まだ存在してもいない、今後ちゃんと生まれるかもわからない命を守るために仕事を休むことができるなんて。

「働いてたら流れる程度の命なら流産してもしょうがないじゃん、そんなこと気にしてないで働けよ」、とはならないのだな。わたしが想像していた世の中ってそういう、ドライで、弱肉強食な世界だったのだけど、そうでもなかったらしい。

 

まあそういうわけで、今年の目標は、無事に産む、である。

これしかない。

たどり着けるだろうか。

でも、やれるだけのことはやらねば。

 

 

 

今週のお題「2020年の抱負」

髪を切った(30センチくらい)

一時は胸の下まであった長い髪を、7、8年ぶりにバッサリ切った。

 

「ハンサムショート」とか呼んだりするらしいが、少年のような丸っこいフォルムで襟足のすっきりしたショートヘアだ。

 

今の職場の人たちは、当然髪の長いわたししか見たことがないわけで、この髪型で出勤するとほぼ全員に何かしらつっこまれた。中には、わたしの顔を見るなり文字通り「ハッ」と息をのんでフリーズしてくださる方なんかもいて面白い。

わたしは職場での雑談が苦手なので、こういう、自ら話しかけなくても話題を提供できるイベントがあるのはちょっと安心する。まあ、話題提供効果はせいぜい1,2日程度だけれども。

 

 

「勇気あるね」

などとも言われるけれども、生きてきた中でショートヘア期間の方が長かった身からすると、どちらかというと本来の自分に戻った感覚だ。

髪が長く、パーマなんかかけていた時の自分の方が、なにか「装っていた」。と、切った直後の美容院の中で思った。

 

思えば、「人生で一度くらいロングヘアになってみたい」と興味本位で伸ばし始めた髪だった。自分は背が高いので、マキシ丈ワンピにベリーロングの髪なんか似合うんじゃないだろうか、などと考えていた気がする。そのころリゾートっぽいワンピースが流行っていたりしたから。

長い髪は一通り楽しめたと思う。

前髪を3対7で分けて斜めに流し、毛先にパーマをかけたAKBっぽい髪型だったころは一瞬だけどモテ期っぽいものを味わえた。男性はなんだかんだ長い髪が好きらしい。友人の結婚式などでは編みこみのアップヘアや、ラプンツェルのように横に編みおろすスタイルも楽しんだ。婚姻届けを出した日は、意味もなく美容院に行き、ヘアセットしてもらってから出かけたりした。ベネチアブラーノ島で撮った写真が残っている。このときのわたしは長い髪がよく似合っていると思う。フレンチスリーブのワンピースに麦わら帽子、長い髪がかすかに揺れている。カラフルな町の中で、女優気取りで写真をたくさん撮ってもらった。

その他にも、前髪を伸ばしてみたり切ってみたり。茶髪にしてみたり。

だいたいやって、だいたい気が済んだ。

 

そして30を過ぎ、齢のせいかここ最近、髪の重みで頭皮がすごく痛むことが多くなった。毛量も多いため、洗うのも乾かすのも大変だし、重いし、これ切ったらマラソンももうちょっと速くなれる気がする、と思ったらもう切るしかない! それもバッサリと!

と決めてしまえばもう切る日が楽しみになってきて、迎えた予約日、何の未練もなくバッサリいった。正直ロングヘアにも飽きつつあった。

美容院では、二つ結びにされ、結んだ少し上の方をバリカンでジョジョジョジョジョ、と切り落とされた。それをわたしは、にやにやしながら見守っていた。

 

 

結果、大変楽になった。

シャンプーは1回押しただけの量で充分になったし(前は3、4回分必要だった)、髪を乾かす時間も半減した。適当にワックスをつけておけばいいのでスタイリングも大変楽。

ジョギングしているときも、以前は一歩ごとに髪が肩にかかりバサバサうるさかったのがなくなった。

毎日がさっぱりして、髪の長かったころの自分のことは一瞬で忘れてしまった。

 

モテという点では、男性受けはあまりよくないのかもしれない。

でももうわたしは最上の夫を手に入れたしな。今さら男受けはいらないのである。

これからはショートカットででかいピアスつけて街を歩くのである。

髪の分だけ人生が軽くなった気がする。

 

 

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日曜日のおやつ。実家からリンゴが5個も送られてきたのでキャラメリゼにした。翌日は大木くんが一つむいてくれた。



富士山マラソン2019の感想

11月24日は富士山マラソンだった。

 

約9か月ぶりのフルマラソン。これが終わったら妊活をしようと決めていて、これで最後と言うわけではないが、一区切りつけるつもりで、これまでよりもたくさん練習して臨んだ。

 

 

というわけで、来年富士山マラソンに申し込もうとする方への参考と自分自身の備忘録のため、時系列順に簡単にまとめておく。

 

 

 

1 移動はレンタカーで

前日土曜日に山梨入り。10時半ごろ大月駅に到着。ここからレンタカーを借りることにした。

会場の最寄は河口湖駅だけれど、そこまで行くと電車も遅いしここで車に乗り換えるのがベターと判断した。

なお、この日はカーボローディングと称して「皆吉」という古民家のごはん処ででほうとうをたべ、体を休めるべくほったらかし温泉につかった。ほうとうはおいしかった。ほったらかし温泉はぬるめの温度で気持ちよかった。

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2 前日受付はめっちゃ混む

17時ごろ河口湖の会場へ受付をしに行った。

どこかで車を止めて、と思ったが、そもそも駐車場をつぶして会場にしているため、車を止めるところがない。あとなんか知らんけど道めっちゃ混んでる。マラソンのせいなのか、紅葉狩りの季節だからなのかはわからないが、車が全然動かない。

適当なところで大木くんに路肩に停めてもらい、わたしだけ受付へ行った。

受付の列に並び、参加賞の列に並び、ついでに、安全ピンを忘れていたので総合案内に並び…としていたら結構時間がかかった。いろいろなブースも見てみたかったが、人が多くて断念。

次回行くことがあったら、追加料金を払ってでも自宅に送付してもらうか、新宿まで事前受付に行った方がいい。ちなみに、当日の朝はもっと混んでいたよ。

 

3 宿は山中湖(になった)

宿をとったのは6月下旬だったが、その時点でもうすでに川口湖周辺の宿は高いところしか残っていなかった。このマラソンに絶対出ると決めているなら、エントリーが始まる前に宿は押さえた方がよいみたいだ。

まあ、我々は車移動なので少し離れていてもかまわないと、山中湖近くの「ペンションすももの木」に宿泊。階段においてあるぬいぐるみや、ちょっとレトロなベッドカバー、「お風呂上りにアイスがあるよ」なんて言われて、親戚の家に泊まりに来たみたいな感じ。ほのぼのする。8時からは山中湖の花火も見えた。うれしい。

晩ごはんは、やはり山中湖畔で豚丼を。

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豚丼「膳」と言う店。帯広風。めっちゃうまいんだが。明日はマラソン。食べ過ぎてはならぬ……。(結果食べすぎた)

 

4 スタートまで

会場まで車で送ってもらった。7時40分ごろ。この時間は道路はさほど混んではいない。なお、大木くんは身延山紅葉狩りに行くという。

雨がぱらついていたのでお土産物屋さんでレインポンチョを買った。その土産物屋は、ランナーにトイレと更衣室、休憩室を提供してくれていたので利用させてもらう。休憩スペース(食堂)は混んではいたが、座れないほどではない。また、女性用の更衣室は利用者が少なくて空いていた(ただ、外からちょっと見えそうだった。わたしは着替えの必要がないので関係なかったが)。畳の部屋で、じっくりとストレッチ。

他にもトイレや更衣室を提供してくれている店舗がいくつかあった。コース上にも、トイレを使わせてくれるお店が数多くあった。総じて、仮設トイレや既設の公衆トイレより空いていた。大変ありがたい。

さほど寒くなかったので(この日は10月並みの暖かさ。朝の時点で15度くらいあり、日中は20度くらいまで上がったんじゃないか)、半そでのウェアの上にレインポンチョだけかぶり、荷物は8時20分ごろには預けてしまった。なお、寒ければいらないセーターなどをスタートまで着ていることができる。スタート地点で衣類は回収箱に入れられるようになっていた(服はリサイクルされ、戻っては来ない)。

8時40分ごろ、「E」のエリアに並ぶ。

 

5 開会式

日本語と英語で開会式が始まった。13000人のエントリーのうち、4000人だか5000人だかが外国からのエントリーなのだそうだ。たしかに周りは台湾人やタイ人、欧米の人らがたくさんいた。

ゲストに瀬古俊彦が来ていた。「雨は降っていますが暑からず寒からず、絶好のコンディションです!」と選手を鼓舞する。

 

6 コースの感想(前半) とにかく富士山

9時、号砲が鳴り、一斉にスタート。先頭の選手に遅れること3,4分、提灯があしらわれた門をくぐり、わたしもコースへと飛び出した。

コースの感想は、まず結構アップダウンがある。中間地点すぎの大きな坂以外はさほど注目していなかったのだけど、アップダウンがちょこちょこある。上半身が重い。昨日の豚丼がきいている……。

そして紅葉が美しい。もみじのトンネルのような道をくぐって走る。

数キロで折り返し地点があるので先頭選手とすれ違うのだが、やはり最初の数人はめちゃくちゃ早い。100メートル走かな?っていうスピードで駆け抜けていく。そのたび、我々鈍足ランナーから「おおー」とか「かっこいい」というどよめき、拍手が上がる。先頭の選手めっちゃかっこいい。

 

9キロ地点のエイドステーションは、シャインマスカットが置いてある。うわ食べたい、と思ったものの、まだ9キロなので我慢。ここは帰りも通るし……。

橋を渡り湖をしばらく反時計回りに走っていると、左側に富士山が現れた。周りから歓声が上がる。さっきまで曇っていたが、ついに雲の上にその神々しい姿が見えたのだ。富士山は雪をかぶって白く光っていた。大きい。静岡側から見るよりも柔らかいラインで、どっしりたたずんでいる。

感動しながら走り続ける。

残念ながら、写真はない。キロ6分前後のいいペースで走れている。写真なんかとっている場合ではない。

 

7 コースの感想(坂) こんな坂ありかよ

中間地点を過ぎてすぐ、河口湖を離れ隣の西湖へ向かう坂にかかる。見上げる。道を埋め尽くすようにランナーたちのカラフルなウエアがうごめいている。ほとんどの人が歩いている。あの先までか、と見上げて少し走って、いや、あの先道が折れて見えないだけだ。いったいこの坂どこまで続くのか。と絶望したところで走るのをやめてしまった。足にまめができていたので、救護所で絆創膏をもらい、また少し走る、高校生の応援もあるし、頑張ろう…と思ったけれどやはりもう走れなかった。「これ反則じゃない? え? 先頭ランナーたちこれ全部走って登ってるの? わたしの周りの人もうすでに誰も走ってないよ?」状態。この坂は、およそ1キロかけて約100メートル登るのだ。力のないわたしには、無理だった。。。

 

坂を上りきったところでトンネルをくぐり、下り坂に入るので走ろうとしたのだが脚がめちゃくちゃ重くなっている。坂に入る前と比べるとまるで話にならないほどの遅いタイムでのろのろ走り出す。そのあとも、歩いたり、走ったり。完全にあの坂に体もメンタルもやられてしまった。くそぅ。次走る機会があったら、ジムで2時間走った後に1キロ以上斜度10%で走る練習をうんと積んでから出よう。なんとしても走り切りたい。くやしい。

 

8 コースの感想(後半) 大きなエイドステーション

西湖の様子はというと、とても静かで穏やかな湖だった。こじんまりしていて美しい。まあ、景色が変わらないので走る気はそがれていくのだけれど。

 

28キロ地点に一番大きいエイドステーションがある。みんな広場に入って味噌汁をすすりおにぎりをほおばっている。わたしは胃がむかむかするので炭水化物は無理だが、お味噌汁はもらった。疲れた体に沁みる……。マラソン中に飲むみそ汁はこの上なくうまい。

そうこうしているうちになんと5時間のペースメーカーの方々までわたしを抜いて行ってしまった。うわ、もう今日は終わりだ、と諦めモードに入ってしまう。

 

気を取り直してレース再開。脚は痛いが、少し休んで体がやや軽くなっている。そのまま河口湖への坂を駆け下り、残り7キロ。あっそうだ、ラスト3キロ地点のエイドでシャインマスカットがあるんだった。そこまではとにかく走るぞーと、遅いながらも足を止めないで進む。

が。世は無常である。シャインマスカットはすでに姿を消していた。あるのはチョコとクッキーばかり。人気者は短時間で売り切れるのだ。婚活と同じ。そんな気はしていたよ。だいたいどこの大会でもそんなもんだよ……と自分を慰めようとするも、心が挫けてつらい。足が重くなる。ぐす。シャインマスカット、食べてみたかった。来年の秋は高くても絶対買うし、と心に決める。

 

残り3キロ。ここまでくると、もう1キロどころか100メートルが異様に長く感じる。それでもあと少し。朝くぐったあの提灯が見えてきた。よしあそこまでだ。重い足をあげ、無理やり腕を振り、なんとかかんとか、ゴール。

 

9 ゴール後  豚汁うますぎ…

メダルをかけてもらい、バナナ、水、パンを受け取る。目指すは無料の豚汁。ここは全然なくなりそうにないくらい十分に用意があった。1杯受け取り、アスファルトのあいているところへ座り込んで豚汁をすすった。うまい……。一口すするごとに「あぁ」とため息をついてしまうくらいおいしい。沁みる。塩分とうまみが、疲れて冷えた体の隅々まで沁みる。

 

食べた後は、荷物を受け取り、大木くんにライン。数分で来れるようなのでお土産物屋さんでクッキーを買い、ソフトクリームを食べつつ大木くんを待つ。河口湖で花火が上がった。大会終了である。空は再び曇っていて、富士山は見えなかったが、それでもこのお祭りの空気は楽しかった。

さて、待っている間に、さっきまでスムーズだった交通がどんどん渋滞してきた。15時になり、全面的に交通規制が解除されて交通量が一気に増えたらしい。大木くんも渋滞に巻き込まれ、到着に少し時間がかかった。

 

10 ついでの観光  もみじ回廊

大木くんの運転で、もみじ回廊へ。本当に美しい紅葉をくぐって歩く。

走っているときも思ったけれど、このあたりの紅葉は本当に綺麗な色をしていた。本当にいい時期に大会をやってくれているのだなあとしみじみ感謝の念が浮かぶ。

都留駅前で温泉「より道の湯」に入り、さっぱりしてから大月駅でレンタカーを返却。

駅前の何屋さんなんだかよくわからない古民家の食べ物屋「桂」で大木くんとビールで乾杯。田舎っぽい優しい味の味噌ラーメンでおなかを満たして、帰路についた。

明日も仕事だ。

電車に座っているのもつらいほど酷使したおしりが痛いが、気分はどこまでも晴れていて、なんだかわくわくしていた。

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あとから分かったことだが、実は、このときわたしは妊娠していた。

どおりで1週間ほど前から食欲が異様に増し、異様な便秘に悩まされ、異様に胸が張って体も重くなっていたわけだ。5時間かかったのは妊娠のせいだった、ということにしとこう。。。

無事に産まれたら走太とか名前つけようかな笑

生まれてきてよかったと生まれて初めて思った日

生理が来ない。

水曜日、妊娠検査薬を試したら陽性反応が出た。

慌てて大木くんと一緒に昨日の土曜日に近所の婦人科に検査に行ったら「まだわからないからまた来週来て」と言われてしまったので、本当に妊娠しているかはわからないのだけれど。

わからないのだけれど、でも、大木くんとの会話の中で、「もし本当に子どもができてたら」という話題が増えてくる。わたしたちは数日前から急に未来を具体的に描き出した。

 

 

今朝、家事の最中に、保険かなにかのCMで、「お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう」とか、そういうセリフをしみじみと言っているものを見た。

ちらっと見て、「そうね」と思って家事に戻りかけ、そう思った自分にはっと驚いた。

 

これまでのわたしだったら、「わたしは、親には育ててくれたことには感謝するけど産んでほしくはなかったな」などと思っていたはずだ。

今は不幸より幸福の方が多いけれど、これまでずっとしんどかったしこれからだって一寸先は闇だし、人生100年時代、あと70年も社会の中で周りに気を使いながら生きていかねばならないのは苦痛でしかない、と思っていたのではなかったか。

人生がついこのあいだまでと全く逆方向を向いている。

自分で自分に驚いて、「今わたしは生まれてきてよかったと思っているのか?」と自問してみると、何でもなさそうに「うん」と自答された。

驚愕。

 

これが妊娠するということか。

 

妊娠した(と思っている)から、ヒトとしての一番大きな役割を与えられた気になって自尊心が高まっているのだろうか。

ヒトにとって子どもをつくるということはそれほど大きな意味を持つのか。

ヒトはそれほどまでに本能として、次世代にバトンをつなぐ歯車になりたがっているのだろうか。

種の保存に貢献できるから自分の生命には価値があった、と、そう感じているのだろうか。

 

 

ちょっと怖いくらいの変化だった。

だってこの変化は、言い換えればすなわち、「わたしの人生、子をなすこと以外大した意味を持たなかった」ということになりはしないか。

 

 

いまは、少し抗いたい気持ちがある。

上記のことを肯定してしまうと、じゃあ流産して今後子どもを産めなかったらわたしたち夫婦のヒトとしての価値は何だということになるし、わたしは十代、二十代のころ、「結婚して子どもを産め」と親や親戚に言われることが本当に嫌だったから。「子どもを持つことが一番の幸せだ」とか「親になってはじめて親のありがたみがわかる」だとか上から目線で勝手に決められたくなかった。それなのに、わたし自信が「子どもを持つことが人間の一番の幸せだ」とか言い出したらどうなる。苦しんできた若い頃のわたしが浮かばれないじゃないか。

今後子どもが生まれて大きくなっても、わたしは結婚や子をなすことが最上とは子どもには言いたくない。人生で何が大事かなんて、その人自信が決めるべきだと思う。

ただ、きっとその人が幸せにならないことには「生まれてきてよかった」とも「産んでくれてありがとう」とも思えないのは確かなようだから、子どもを産むとしたら、責任もって幸せになるすべを身につけさせないといけないなとは思った。

 

 

今後、この感覚が、価値観が、どう変わっていくのか、今の時点では全く分からない。

でも今日のこの変化は一つのキーポイントになる気がするので、記録しておこうと思う。

 

 

まあ、こんなふうに思ったのは、もしかしたらたまたまこれが日曜の朝だったせいかもしれないけれど。

この週末は、金曜の朝から頭痛がして、しかも妊娠しているかもしれないため安易に薬を飲むわけにもいかず、結局耐えきれずに仕事を早退して土曜日の夕方まで寝込んでしまった。その痛みからようやく解放されたので今朝は気分がとてもよく、そしてまだ仕事に戻らないでいい日曜の朝だから、きっと普段より心に余裕があったのだと思う。

その余裕ゆえにあんな風に感じただけかもしれない。

また残業が増えて体調を崩してミスが増えれば気分なんてころっと変わるだろう。

 

この先も、例え子どもが生まれたって、また自尊感情がずたずたに低くなることもあるだろう。そのとき今日と同じように「生まれてきてよかった」と思えるかどうかは、今は何もわからない。

 

 

ただ、大木くんには言いたくなった。「わたし、生まれてきてよかったかもしれない」

 

 

現段階では流産などの可能性もあるから、まだ言わないけれど。